死線を越えて 01 死線を越えて

19話 十九

1,409字 約3分 2022年7月10日 公開

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 栄一が知らぬ顔して宅へ帰つたのは晩の七時であつた。父はお梅と晩酌をして居た所であつたが、栄一の帰つたのに驚いた様子であつた。父はすぐ『笑はどうした』と尋ねた。昨日田舎からすぐ使が尋ねて来たから父には知れて居たのだ。然し栄一は答へ無かつた。栄一は重い頭を抱へて鶴子を訪れた。鶴子は栄一がまた瞼を腫らして居るのを見て、

『今日もまたどうかしたの?』と尋ねた。

『ア、また悲劇を演じて来たの』

『誰と?』

『お父様と』

『どうしたの』

『私は妹を隠したのですよ』

『何処へ?』

『いや』

『云つて呉れない?』

『いや、恥しくて云へない。あなた大抵想像出来ますよ。出来るでせう』

『大抵想像は出来るけれど。またあなた、お父様と何か衝突なしたのでせう』

『アヽ、衝突しましたよ』

『ね、あなた、妹さんをどうなしたの?』

『神戸へ置いて来たのですよ』

『神戸へ? 何時の間に? あなたもいらつしやつて?』

『今日、今帰つた許りです』

『今日?』

『あなたも面白い人ね。妹さんをどうなされたの? 神戸へ連れていつて?』

『下女にして終つたのですよ』

『下女に? まア非道いのね』

『非道いつて、そりやア、あなた事情を知らぬからですよ』

『私にその理由を聞かして下さい。云はれない?』

 栄一は段々話を始めた。そして涙を流して悲しいと云ふ風を装うて(もし泣かないと同情が無いと云はれると思つたから)鶴子の同情を求めた。そして、その結論は恋であつた。

 栄一の胸はもうまるで平均を失つてしまつたと云つても善いであらう。恋しい鶴子が徳島を立つと云ふ日になつても別に悲しいとも思はなかつた。勿論その日学校へ出ても快活に子供等と遊べなかつた。

 晩の八時頃ヒヨツコリ栄一は鶴子の家へやつて行つて、恋人が別れる時にする様な真似を一時間許りした。そしてその中の二十分は沈黙で、後の四十分は公然の夫婦だと世界に広告して廻る事の出来なかつた事を恨む様な話を繰返したに過ぎなかつた。然し二人共涙を流した。

 中洲へ見送つて行つた時、女のお友達が大勢皆美しい当世流の髪を結つて綺麗な顔をして来て居た。その中にはミセス・テーラーも居つた。女学校の先生も居た。同級生も居たし下級生も居た。男の見送りは牧師と栄一のみであつた。

 栄一は鶴子のお友達の美人を一つ見ようとでも思つたか、鶴子が入つて居る二等室へ行つて、大勢美しい女の居る前もかまはずに、

『手紙を忘れない様にね』と云ひ置いて出かけた。鶴子は、

『まだ出帆までには二十分位あるでせうから、少し話してゐらつしやい』と強ひるとはなしに強ひたが、何だか男らしくないと思つたから出て来た。

 二等室の出口を覗いてゐる時、

『あの綺麗な男の方はどなた?』と鶴子に問ふ者があつた。

『あの方は市長のお息子さんですよ』と鶴子が得意に答へて居る声を聞いた。

 出帆の真際になつて、色の白いマガレツトの鶴子は、綺麗な絹物に纒はつて甲板に立つた。そして特別に栄一の方を見て居る様に思はれた。

 烟を残して船は出て行つて終つた。栄一は家へ帰つて直ぐ床に入つた。そして鶴子の顔を想像して見ようと思つたが、横向きの顔の輪廓は少しは似顔も画けるが、真向きの輪廓は、どうしても現はすことが出来なかつた。出来なかつた許りぢや無い。鶴子の顔を忘れて了つた心地がした。その代りに色の黒い背の低い髪の赤い妹が俛いて泣いて居る幻が現れる。それで栄一は『鶴子が早や逃げて了つた』と小さい声でひとり言を云つた。

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