20話 二十
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あくる朝、夢を見た。
『サアビ』と云ふ亜米利加バアジニア州の農夫の夢を見た。此度亜米利加と独逸との間に起る戦争は陰謀者があるので、此陰謀者は三十八日断食すれば捕まる。此陰謀者が捕まると独亜の戦争は勿論、世界に戦争と云ふものは全く無くなる。だから『断食して見よ』と云ふのであつた。それでサアビは夢の通り『断食』してみると、三十八日の断食は別に困難でなく、陰謀者も安々と捕へられて、独逸と亜米利加は勿論、世界に戦争がなくなつた、と云ふ夢であつた。
何だか標準もつか無い夢だなと思つたが、夢の事から瑞西と白耳義は中立国だから、戦争が嫌ひな人民は瑞西と白耳義とへ帰化すれば善いのだ。早く帰化権を得た方が善い。帰化さゝぬ? 誰が?………………?………………何だ? 偶像だ? ヘーゲルだ! 幽霊の様なものだ……など夢の様に考へて居た。
いつに無い朝寝をしたので、父は戸を開けて神様を拝んで居る。いつもならば『栄一、起きて戸を開け』と云ふのだが、今日に限つて黙つて居る。黙つて居るからこちらも寝て居る。
『新聞!』と云ふ声が玄関の方にして、バサと新聞の入つた音がしたから、こいつは一つ新聞でも読んで遣らう。哲学とか云ふ面倒臭い勉強をしなくとも、新聞読んで一生送る方が気楽で善い。世界に新聞許り読んで一生を送る人は多い。なに新聞許り読んで居ては飯が食へぬ……然し一寸新聞を読まう。『一寸新聞を読みます』と頼む様に自分に云つて見て、寝巻きのまゝ玄関へ急いで飛んで行つた。踞んだまゝ新聞を読み始めた。
論説は何だか中華民国の危機とか云ふもの……アヽ老子荘子の国が危いと云ふのか?……亡びやうが亡びまいが、我輩にはちつとも関係はねえ。……亡びても我輩さへ生きて居りさへすればそれで善い。敵がせめて来て僕を殺しても僕の幽霊は残る。幽霊が残つたらそれで善い。中華民国の危機とか云ふのは世界に威張りたい連中が捏造した遊び事だ。まア我輩には関係はねえ――と一頁を瞥見して、二頁を返したが、倫敦電報とか、紐育電報とか、何とかかんとか云ふ電報で埋つて居る。その中には前代未聞の大夜会など云ふ文字も見えて居た。少し恁那夜会に出席して、西洋の美人と舞踏して見たいと云ふ気も起つた。三面を見ると、大森の水死美人とか又復華厳の滝とか、少女誘拐せらるとか云ふ文字で充されて居る。水死美人を読んで見ると恋人の心変りを気にして水死したのだと書いてある。恁那女に惚れられると幸ひな物だと思つて、華厳の滝を読むと失恋したと書いてある。失恋したのなら、時を待つて第二の美人の恋を得たら善いだらうに、一寸恋人の心を引かうと思つて、奇妙な軽業をやつて生き損ひをするのだねとも考へたが……然し尤な処もあると頷いた。
恁那文句を読むと恋と云ふものは奇妙なものだ。恋して居る人は仕合せだ。折々恁那事件が起つて恋に値打を付けて呉れるから――など思つて直ぐ鶴子と自分の関係に思ひ及んだ。新聞に接吻した。
四頁の広告を見ると、新刊の哲学書や小説の広告が出て居る。岩永健著『ロツチエの研究』とか云ふのは、長々しい効能書きを書きそへて定価一円七十銭で販売致しますと出て居る。此広告を見ると、何だか自分は生存競争の敗者の様な気がする。少し社会改良とか、家庭改善とか云ふことを止めて、二三年も勉強すれば、之れ位の著作は何でも無いがと思ふ。それから鶴子に自分は近い中に哲学の著作を一冊出すと云つた事を思ひ出す。然し今となると心臓が鈍れて筋肉の所々が痙攣する様にも思はれるから哲学の著作は一頁も出来ぬとも感じる。胸糞が悪くなつたから新聞を寸々に引き裂かうとしたが、まア/\と一頁を返して見ると初め気が付かなかつた新刊紹介と云ふ欄がある。その中に岩永健著『ロツチエの研究』と云ふ標題で批評が出て居る。『行文難渋にして読者をして何処に論意あるかを疑はしむ』と書いてある。栄一は『アヽ之だ。我輩が書いても恁那批評しか受ける事が出来なかつたらどうする。社会から見捨てられたらどうする。気体の悪い?』と新聞を畳の上へ投げ付けて置いて中の間へ帰つて来た。中の間へ這入りかけるとお梅が神様を拝みに行くのとバタと出会した。お梅は、
『まだ上げんので……』と呟いて椽へ出た。栄一は黙つて衣服を着変へながら『馬鹿々々しくて小学校の教員などに満足はして居られねえ、社会から見れば自分等一文の値ひが無いのだ』など考へて居る。朝飯も今日は止めにして哲学の本を一冊読み上げて終はうと思ひ立つた。思ひ立つと慌てゝ蒲団をグル/\と巻いて玄関の押込へつき込んで、二階のスタデーへ飛び込んで机にもたれた。
何を読んで善いやら解らぬ。まア此間宣教師から借りて来た『基督教教理史』でも読んでキリスト教を唯物史観の立脚地から教理の変遷でも研究して見てやれと云ふ気になつた。がハーノツクとオーアどちらを開くかが問題になつた。宣教師は曾つてハーノツクを異端だから用心しろと云つて居たからハーノツクを開く事にしようかと思つたがハーノツクは五冊に成つて居る。今日一日に読んで終ふにはオーアの方が都合が善い。オーアのは僅か三百六十頁。一日には易い仕事だと考へた。然しハーノツクのは厚いだけ実がある。まア両方共と二冊を二冊ながら机の上に置いて両方の一頁を開いて見る。
ハーノツクの方はスベ/\の紙で印刷がハツキリして居る。オーアの方は日本紙の様な雅味のある紙に大きな字で印刷されて居る。
『どちらを読まうか? え、ハーノツクにせえ、実のある方を』とオーアをブツク・ケースに押込んで頭を抱へてハーノツクを読み初めたが、『之を読んで何にする? 之を読んで名誉でも買へるか? ハーノツクを読んで居ると鶴子に云うたら鶴子は「あなたは学者だ」と云つて接吻の一つもして呉れようが、もう鶴子も広島へ行つて終つた。……さうだ鶴子は今頃汽車に乗つて岡山あたりへ行つて居るだらう。岡山から西は僕は知らぬ。鶴子は景色が善い、景色が善いつて喜んで居るだらう。明日は手紙が来る。その中には多分、
「恋しい君と別れて内海の夕陽見ん力もなく自然を楽しむ余裕もあらばこそ唯南を望んで君の美しき姿を幻に現はし、翼あらば飛び行きて抱きもせんなど思ひつゝ、思はず知らず袖を濡らしつ……」位ゐの文句が書いてあるであらう。さうすると言文一致で出来るだけハイカラに、
「甲板の上に立つて居た君の……恋しい人のその面影! 目を閉ぢても目を開いても目先に現はるゝは君が姿! 曾て君がスタデーで与へられた接吻、どうして忘れる事が出来ませう! 夕べが来る毎に遊びに行く処が無くて勉強室を開いて物干を見ると、主が去つて開かれぬ二階建の家。君は永遠に去つたかと思つて泣く。……」と云ふ風に書いてもやらうか』と心は先から先へ乱れて行く。読んで居る事は何が何やら薩張り解らない。
『之ではならぬ、僕のジニアスは哲学だ。哲学の研究を女などに妨げられてはならぬ』と思ひ直して読んで来た処をまた始めから読み直すと少しは解つて来る。大分解つて来た、嬉しいと思つて居ると、
『栄一様、蒲団を畳んで入れんでかい?』と玄関でお梅が叫んで居る。またお梅が生意気なことをぬかして居る。あれだけ畳んで置いたら結構ぢや無いか。放棄といてやれ、と聞えぬ振りして本を読んで居ると吉三郎が上つて来る。
『若旦那、奥様が蒲団を畳んで押込みへ入れてお置きなはれと仰しやつていらつしやいます』と云ふ。
矢張り知らぬ顔して本を読んで居る。下女が上つて来る。
『若旦那、御飯をお召上りになりますかつて……そして玄関の蒲団を畳んで入れて置きなされます様に仰しやいました』と伝達して来る。それでも黙つて居る。下女も黙つて返事を待つて居る。下女は可哀想だと思つたから、
『あなたは下へ降りて行つても宜敷いですよ』と無意味な返事ではあるが兎に角為て、下女を下に降ろす。
『お梅は僕の蒲団まで検査してゐるのか? 日に日に。腹の立つ野郎だな。えい』と立ち上つて下に降りる。玄関に現はれるとお梅が今蒲団の隅から隅へと目を配つて畳んで居る。栄一はつと進んで行つて、
『失敬な!』とお梅から蒲団を取り上げて畳むか畳まんかに押込に押込んでピシヤンと戸を閉ぢて終つた。
お梅は『フム。をかしい人。人が畳んで上げるつて云ふのに畳まさんで、勝手にするが善いわ。その変りになんぼ汚れても洗濯はして上げまへんわ』と嘲笑つて居る。
父が出て来た。父は出て来るや否や、持つて居る長煙管で栄一の頬を耳からかけて擲りつけた。
『ア痛た』栄一はそこへ倒れた。然しすぐ飛び起きて家を出た。その日一日帰らなかつた。昼飯も食はずに山へ登つて瞑想してゐた。そして晩は九時頃まで勢見の絵馬堂でうろついてみた。が、寒くて仕方がないので帰ることにした。大麻山で三日断食した元気は今は何処かに消えて栄一は哀れに閉ぢられた門の前に立つた。雨がしよぼ/\降つて来る。門はいつまで経つても開くことは無い。栄一は女の様に泣いた。一時間程して下女が便所に出て来たので下女を呼んで内へ入れて貰つた。