死線を越えて 01 死線を越えて

22話 二十一(2)

1.1万字 約21分 2022年7月10日 公開

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と、云ふ意味が出て居る。栄一は今更ながら世界と云ふ処は自由勝手のきく所だ。金さへあれば千人の美人でも一度に抱いて寝る事の出来る世界だ。僕は今迄道徳と云ふ囲ひを知らず識らず設けて苦しく思つて居たが、世界はもう疾うの昔に此囲ひを破壊して居るのだ。人間は昔から自分を解放して居る、まア不思議なのは世界だと考へながら重い足駄をトボ/\と『中の町』の方へ運んだ。

 然し目に浮ぶのは障子に付けた火の燃え立つ様子……ペラペラ……ポーと馬の走る様に燃え立つたがポツと消えた時には浦島が玉手箱を開いた時の様な心持ちがした。あの燃え方! 何だか目の前にちらつく。あれはあれなりで消えた様に思つたがすぐ家を飛び出したから消えたと思つても、或はまた燃え立つて今頃は大火事になつて居るかも知れぬとも考へてみた。

 然し警鐘の鳴らぬのは火事の無い証拠だ。それでも火事をやる様な事をしたから自分に如何様(どのよう)な難題を父やお梅が持ちかけるかも知れぬ。また警察の手を借りて如何様な惨酷な事を自分にするかも知れぬ。すると自分は小松島へ遊びに行つても先の見え透いて居る禁錮の身だ。縛め上げられた身だ。今頃はお梅や父がどんな事を巧んで居るだらう。それが知りたい。幽霊であれば飛んで帰つても聞くのだが、然しどうも仕方が無い、肉が付いて居る幽霊ぢや、と思つて居る時にザアと烈しく雨が降つて来る……あちらの屋根こちらの軒に、そしてまた栄一が持つて居る番傘の上に小石を投げ落す様に降る。人力車の轢る音も急いで菓子屋の小僧が戸を半分閉める音も雨の音にも勝らない。之では如何することも出来ぬ。此雨に小松島まで行く勇気は無い。然し何処へ行かう。まア歩けるだけ歩く事にしよう。とゆつくり出来るだけ暇を取る様に歩いて居ると、横町から小学校の生徒が二三人、重い傘を持つて袴を半分雨に濡らして学校へ出掛けて居る。羨ましい。

 もう十一時になるかと思つたがまだ七時半だ。二軒屋まで行かうと大道の角の派出所までやつて来た。到底小松島へ行く事が出来ぬのはわかり切つて居る。わかり切つて居るなら東新町の叔母の内へでも久し振りに遊びに行かうと思ひ付く。叔母の所へ? あの穢い小い家に、子供の大勢ある貧相な叔母の処へ、あの愚痴な無学な哀れツぽい叔母の処へ? よした方がいゝだらう、よした方が。叔母とは一時間か三十分は話も出来るか知らんが三時間四時間とは話は出来ぬ。叔母の話は大抵極つて居る。

『な栄一様、内が恁那に貧乏しても、親類で誰一人顧て呉れる人は無しな。芝生の兄様もあんな金持でも一銭の金も貸して呉れず。偶に遊びに行つても泊つて帰れとも云つて呉れず、徳島本町の兄様は市長になつたり代議士になつて豪い出世もしたけんど、今になつては一言半句四季の挨拶に来て呉れんわ。食ふに困つて二円なり三円貸して呉れと云うて行つても内にはそんなお金は無いから此度はお断り申しますと反付(はねつ)けられると云ふ工合でな。内の父さんはあの通り仕事はせずにブラ/\して居ると恁那浮世に生きて居るのが真にいやになりますわ……』相も変らぬ事を田舎弁で説き立てられると堪つた者ぢや無い。此間道で会つて遊びに来いと云つたからあまり行かぬのも気の毒ぢやと思つたので行つて見たものゝ黙つて聞いて居ると泣き言許りだ。泣き言聞かせて貰ひに来たのなら二十一日の縁日に滝の大師堂へでも行つて、道側に泣いて居る遍路乞食の話を聞いた方が遥かに勝つて居ると思つた位で閉口した。叔母の内へ行くのも善いが泣かれる。覚悟は善いか? 君は面白く無いこと許り家で為て居て外へ出てまで面白く無いことを経験する必要があるか?……

 などと自分に尋ねながら大道を歩いて行つた。大道を歩いて居る事は知つて居る、然し何だか外は真暗がりの様な気がする、眼もキン/\光らして両側と前とは見て居る、家が両側にあつて人間が商売して居る。商売して居る中には古道具屋もあり時計屋もあり質屋もあると云ふことは知れて居る。がハツキリ此処は質屋で此処が菓子屋だと云ふ区別はつかぬ。何間歩いても玉の上を歩いて居るか風に乗つて居ると云ふ調子でポカリ/\と歩んで居る。肥車がやつて来た。矢張り気が付かなかつた。

『ホレ、危ない!』と声をかけられて、気が付いた。

 今迄暗かつた客観世界がボツと明くなつて此処に理髪店がある、此処に着物屋がある。アヽ此処に八百屋がと区別が付く様になつた。それで叔母の処へ行かうと決心した。派出所の角まで引返して大工町の第二の曲りを左に這入ると東新町、左側に並んで居るのが松浦の長借家である。長借家の一番こちらが叔母の宅で格子戸を開けて這入ると叔母が丁度掃除をして居る。

『ア、栄一様で、今日はどうしたんで? 学校はやめたんで?』と驚いて尋ねる。

『何ぞ、用事でもあるんでか?』と返事せぬ中に続けて尋ねる。

『いや別に用事も無いのですが、頭が変になつて神経衰弱でも起つた様ですから此頃は学校を休んで居るんです。今日は雨降りなり内に居つてもあまり面白くないから遊びに来たのですよ――』と云ふと、叔母は笑ひ乍ら、

『それぢや、まあお上り』と云つて、栄一の上つて行く処を、

『栄一様、兄さんは今度、大分コレ貰うたさうで……』拇指と人差し指とで輪を造つて示す。

 栄一は苦い顔をして『知りませんよ』と軽く答へると、

『知らんと云ふ道理があるでかい。同じ家に住んで居つて』

と栄一にすり寄つて背中を叩く。

『ほんとに知りませんのですよ』実際のことを云ふ。叔母はそれでも、

『あの富田橋の浜の土手で……栄一様は悧口だから化けて居るのだらう』と来る。そう来られては堪らぬ。

『実際知らぬのですよ。富田橋や土手で賄賂を貰つたのですか、お父様が?』

『さう云う話ぢやな』と苦笑して妙な振りして云ふ。

『さうですか、全く知りませんでしたよ』

『さうで、知らん方が善いなア。内では叔父様がそんな話を聞いて来るんでよ。それに大城の方から来とる土方の頭が宅へ此頃きて居る人でな、折々話が出てな、兄さんは甘(うま)い事をして居るつて噂をするんですわ――』

『そんなに甘いこと行くでせうか?』

『そらなんでも牛屋島の榊を知つて居るだらうな。それ馬詰の隣村の牛屋島の榊……うちの花が嫁入して居る家でわ』

『アヽ知つて居りますよ』と栄一は答へたが、小学校時代の昔を思ひだす。従姉の花さんがなる程牛屋島の榊へ嫁入して居た事がある。然し離縁せられたが――

『あの榊が此頃土木に手を出して居るんでよ。兄様とは眤懇の間ぢやから甘い事そこらあたり誤魔化して居るんだらうな。……恁那事おまはんの前で云ふと怒るかも知らんけど……まア栄一様此処より二階へでも行かんで、今日は皆学校へなり外へなり出て留守ぢやからない、まア二階へでもお出でなはれ……』

『エ、有難う』と黙つて急な小さい段梯子を上つて叔母について行く。

『火でも入れるわな。御免なはれよ、掴みさがしてあるけんど』と叔母は云ふ、叔母の云ふ通り取り乱してある。六畳と四畳の二つを打ち通した室に窓の方には二つの小さい机が並んで居る。之れは叔母の親類の女の子を女学校へ出すので月に幾何か叔母を補助する積りで子供を預けて居るが、その二人の女学生の机である。その机の上は勿論のこと、壁の側の行李支那鞄などは蓋もせず衣服は畳みもしないで取り散らしてある。栄一は座敷の真中へ坐る。叔母は火の無い火鉢を前に据ゑて坐る。

『煙草喫まぬから火は入りませぬよ』

『さうでか、下にも火が無いやらあるやら解らんけん、それぢやもう火は入れんでよ……』と淡泊(さつぱ)りした叔母は、気軽なことを云ふ。

『然しお父様もよくそんな事が出来るものですね』とまた云ふと、

『さうしても善いでせんか。市長になつたらそれ位の事はせな。千二百円やそこらの年俸であんな大きな家に住んでは会計が立つて行かぬでわ』と叔母は何でもないやうなことを云ふ。

『然しですよ叔母様。市には市参事会員や市会議員と云ふものがあつて中々小さい橋をかけるのでも大勢が相談してするのですがね――』

『そんでも、金の匂ひを少し、かざますと直ぐ云ふ事を聞くでわ。今時の人は皆悧口ぢやからな、金の多い方に付くのぢやがな。それでなくとも、請負仕事はらちがあかぬと云うて市長が自分手に取り締ると云ひ出したら、それ切りでないで』と説明して叔母は痩せた顔に得意の色を輝かす。

 栄一は、自分の側に捨てゝあつた『女学世界』を引き寄せて見る。目次を見ると中々面白さうな事が書いてある。叔母はそれを見て、

『今時の人は女の子でも雑誌や小説つて、色々な本を買うて読むんぢやな。お金が入ることぢやな随分、それ東京ポツクとかパツクとか云ふ本があるでないで面白い本ぢやな。少し古いんぢやけんど、歌留多取りの帰りに惚れた男を待つて居る女と、また惚れて居る男を画いてあつたが、なか/\甘いこと書いてあつたな……あの本は何処へ行つたか知らん、此あたりにあつたと思うたが……』と立ち上つて机のあたりを探す、色々な雑誌を引つ繰り返しても見えぬ。

『見えぬわ――』と云つてまた元の所へ帰つて来る。

 栄一は熱心に『女学世界』を見てゐる。

『栄一様。何んで面白いことでもないでか? 面白いことがあれば聞かしてつかはれ』と雑誌を覗き込む。

『さうですね――』と茫然した答をして、世界各国の女学生気質と云ふ題の所々を読んで、ともすると叔母の宅に居ることを忘れる位熱心になる。米国の女学生の自由な恋愛談の所を読んでクス/\と笑つて居る。

『何がをかしいので? 云つてつかい』と叔母は顔を見上げる。それでも栄一は続きを読んで行く。叔母も少し馬鹿気て来たから、

『栄一様、今日は叔母様の家で御飯喫(た)べて御帰りなはれよ。御馳走はないけんど家へ帰らんのならよ』と、立ち上つて梯子段の所まで来て云ふ。

『有難う』と唯簡単に答へて置いて読み続ける。叔母が下へ降りて行くと栄一は考へた。

『も少し丁寧に返事すれば善かつた。貧乏の中でも甥だとこそ思へば昼飯も食へと云つて呉れるのに、昔と違つて飯を三杯多く食はれても困る今じやに……心から何か知らぬが一緒に食へと云つて呉れると嬉しいものだ。叔母も可哀想だ、叔父が女郎買ひをして妾宅騒ぎをした許りに破産したのだから。大城の大井と云へば近村で誰知らぬ金持ちであつたが、明治の変り目にとう/\破産して了うたのだ。叔父は因果としても叔母は罪が無い、可哀想だ、然し我家も屹度大井のやうになるに違ひない』など考へながら『女学世界』のあちらこちらを渉り読みした。色々な想像が浮ぶ。この前叔母の内へ来た時に叔父が居た。『狸つき』の話をして真面目になつて自分も『狸つき』を信ずると云つた事から、叔母が叔父は近頃唯信心許りで藍場の浜の大神宮さん許りにお参りに行つて少しも仕事をせず暇があつたら何やら咒ひの様な真似をして居ると云うた事を思ひ出す。さうすると五分刈の頭に白い髪が大分のびて口髯も三四分荒らく生やした眼尻の皺が特別に多く深く寄つた顎の三角になつた、頬の細い銅色の叔父が唯ふらふら用事も無いのに町を歩いて居る様が夢のやうに現はれる。何となしに淋しい。衣服に付いた垢の匂ひがする。壁に立てかけてある襖の破れが目につく。机の下の反古がいやに穢いと感じて来る。天井の隅の煤にまみれて蜘蛛の巣や、唯三四寸ブラリと下つてゐる麻糸が非美術的だといふやうになる。畳が穢いと思ふ。窓から裏の方をずうつと見ると便所や物干場や芋畑やそれから向うの薬湯の煙筒が秩序も無く配列されて胸が悪くなる。雨空の澄みきらぬのも心地悪い。早く何処かへ行きたいと思はれてくる。然し行く処は無いと考へる。また続けて雑誌を読む。少しは面白い。そして昼の来るのを知らなかつた。

 昼には香の物と汁と御飯とで食事を済ましたがそれから何をして善いか知らなかつた――午後の長い間を、また二階へ上つて雑誌でも読んで居る中に日は暮れて呉れると思つて二階へ上つて雑誌を読んで居ると女学生が帰つて来た。午後四時だ。時間の立つのも早い物だと今更ながら感じて、これはあまり長く居ては叔母に善く思はれぬ。そこらあたりをよく云うて帰つて行かうと、きまり悪く叔母の家を出た。然しそれから先は何をして善いやら全く解らぬ。雨は小歇(こや)みと共に夜が近くなつて居る。まア仕方がない、今夜は何処か宿屋へでも? そうだ。宿屋は善い思ひ付だ。金も二円二十銭許り持つて居るから上等でなくても中等の宿りで五十銭かそこらはまだ余る。処で何処へ宿らう? 二軒屋? 二軒屋にしよう。然し今から宿り込むのもあまり早くて何だか変だ。勢見の金比羅へでも遊びに行かうか……と思ひ付いたので勢見の方へスタ/\行つたが全く無意味だ。自分は無意味で歩いて居るのだと思ふと自分手に可笑くなつて笑ひ乍ら石段を上つた。絵馬堂へすぐ這入つて菓子を売つて居る店へ腰を降した。羊羹の一つも食つて見た。然し甘いと思つた切りで唯……つまらんと思つた。絵馬堂から徳島全体を見降しても景色の事も何にも感ぜぬ。家が無意味に並んで居る。あちらこちらから煙が無意味に立つて居る。栄一は『僕の様に毎日々々遊んで彷徨(うろつ)いて暮すと別に不愉快な事もない。大臣になつて乾分を大勢連れて威張るより大分面白い。恁那に気儘にうろつくのが大分面白くなつて来たわい……』など考へた。

 あまり長くは此処には居られぬ。菓子家の婆アさんも店をしまひかけた。どれ、それぢや帰つて行かう。帰つて行くのぢや無い何処かへ行かう。然し宿屋へ行くのは未だ少し早い。二軒屋の端まで行つて見よう。『どれ、ぼつ/\』と石段を高下駄で降りた。下の巡査派出所では、巡査が何かコツ/\書いて居る。無意味なことをして居ると心の中で笑つて、呉服屋の前へ来ては無意味な人間が裸体を恥かしがるので着物がゐるのだと心の中で思ひ乍ら町の端へ来たがまだ日は暮れない。も少し、も少しと思ふうちにたうとう法華橋まで一里を来て了つた。もう大分暗くなつた。これから帰れば丁度宿屋に入るに都合が善い。『どれ』と舞ひ戻つて場末を町の方へと歩いて行く。町へ入ると精米所がある。精米所の隣りが鍛冶屋――二軒の家の前は野良だ。三軒目から向う側がある。鍛冶屋の隣りが木賃宿、ア木賃宿へ今夜宿つて見よう、経験的に。然し少し恥しい――絣(かすり)の浴衣に鳥打帽を被つて居ては。然し勇気が無い様な事では困る。なに家々に燈のついて居る時だから別に見る人もない。一町許り通り過ぎたが引返して、

『御免なさい。今夜泊めて下さいませんか』と頼むと、真赤な顔をした四十恰好の髯の男が角火鉢の前で晩酌をして居たが、

『狭いけんど泊りたければお泊りなはれ』と栄一の顔を覗きながら答へた。そして、

『御飯はすんだんでかい?』と問うた。それで、

『まだすみません』と答へると、

『ゆきひら貸して上げるけん、向ふの火鉢で火を起して、御飯をお焚きなはれ』と云つて呉れる。

『お米や炭は?』と尋ねると、

『お米、何合入るで、三合食ふかい?』と問ふ。

『え、三合位貰ひませうか』と云ふと、暗い仏壇の下の米櫃から米を三合出して呉れる。行平鍋に入れて『それを裏の井戸へ行つて洗うて来なはれ』と渡して呉れた。

 裏へ出ると女の人が竈の下の火を見詰めて居た。栄一が出て行つたので一寸見た。栄一は生れて初めて米を洗ふことだと思ひながら井戸から水を汲み上げたが、向ふを見渡すと水田に細い雨が落ちて勢見の山がボーと見える。悲哀な湿りツぽい景色にまた何とも云へぬ雅致(がち)がある。

 米を洗ひ乍ら『僕は実にローマンチツクな人間だ。ローマンチツク……自由意志……悲哀なのだ――然し――僕は何と幸福な目に会つたのだらう。幸福だ。僕は恁那美しい一瞬間を経験する事が出来た。僕は雨の夜に自分手に米を炊く』など考へた。

 米を洗つて、内へ持つて入ると、例の主人が『それ炭を上げるでよ。二銭のもあつたらいゝだらうな』と炭を呉れる。

『こちらの室に火鉢があるでわ』と二尺許りの土間を置いた隣つた室の障子を一寸開いて呉れた。

 開けると室は十畳敷許りのものだ。三分心のランプが一つ真中に吊つてある。隅から隅まで善く見えぬが向うの方には六人の男と女が三組になつて抱き合つて寝て居る。中には子を中にして居る者もあり、裸体になつて着物を薄い薄い蒲団の上に置いて寝て居る者もある。蚊が居るが蚊帳はつらぬらしい。こちらの入口の隅に鉄の火鉢がある。主人は、

『あの火鉢で――』と示して呉れた。幸ひ火種がある。二銭の炭を入れて火を起した。大分待たねばならぬと栄一は隅に向つて坐つた。然し矢張り三組の男女が眼の前にちらつく。

 十七八分すると沸いて来たので、蓋を取つて善いのか悪いのか知らぬが、取らぬと火が消えるから取つて沸くのを眺めて居た。

『暇だ。暇だ』と頭の中から叫ぶ。『哲学問題はあまり苦し過ぎる。唯客観の現実を楽しまう』と答へて置いて米粒が角力を取つて居る様に動くのを感心しながら見て居た。『暇だ、暇だ』と頭から叫ぶ。飯が焚ける。食はふか……と茶椀と箸を借つて来て主人が持つて来て呉れた梅干と干魚を菜にして食ひ始めた。

 食ひ始めた時に、坊主頭の五十恰好の男が細い目をして這入つて来た。顔は銅色で酒気を帯びて居る。然し何処かに愛嬌がある。

 栄一を見て一寸驚いた様子であつたが、栄一はぶしつけない顔もせず、

『今晩は』とこちらから挨拶をした。それで向うも、

『今晩は、善く降ります』と答へた。男は座敷へ上つて火鉢の側に坐つて煙管に火を付けながら、

『失礼ですが、あなた様はどちらで?』と問うた。

『え、こちらで御座ります。然し生れは神戸で――』

『さうですか? 神戸と云ふと海を一つ越えてですな』

『あなたさんは?』と栄一が尋ねると、

『越中で御座ります』

『随分遠い国で御座りますね。何をして居らつしやいますか』と尋ねた。尋ねられて視線を炭火の方へ転じながら、少しの間黙つて居たが、廻りを一寸見渡して、

『はい、何です、殖林事業の遊説で、田舎廻りをして居ります。唯今の処では』と一寸息を切る。

 栄一は、殖林事業の遊説……大きな事を云ふ男だなと思ひながら、その男を見ると破れたシヤツに処々つぎの当つて居る筒袖の袷を着て別に人品のある男でもない。

『遊説とはどう云ふ処を?』と大きな声で聞くと、

『大きな声をせん様に、皆が寝て居りますからな』と制して大きな声での会話を避けようとして居る。栄一は此老人の動作が不思議で堪らなかつた。筒袖の男は低い声で、

『殖林の勧誘で御座りますから家々を尋ねて行くので御座りますがない。あの村で三日、此村で五日と家々を訪問して殖林の道を講じて居るので御座ります』

『さうですか、それは善い思ひ付きですね』と賛成の意を表すると、

『あなたはどう云ふ御職業で居らつしやりますか』と問ふから、

『え、まだ学生で御座りまして職業も何も無いのです、近頃脳が悪いのでブラ/\して居ります』

『さうでいらつしやりますか、今日は何処から?』と尋ねられて、栄一は答に困つた。

 暫時二人は沈黙したが雨がまた烈しく降つて来たらしい、戸の外には恐ろしい音がする。栄一は何とは無しに感情が興奮する様に覚えた。然し胸には悲壮な血が湧く。小さい声で『此処に寝て居る人達はどういふ人達ですか?』と頭を対手(あいて)の頭にすれ/″\にして聞くと、

『え、皆、乞食です』と一寸後を見返つて、自分は乞食と同宿して居ても地位が違つて居るよと云ふ態度で返事をした。

『皆夫婦なのですか』と聞くと、

『いや、寄るとあアやつて寝るので、夫婦とか何とか云ふ六づかしいことはあの仲間には無いのですな』

『さうですかね』と驚いた様子で栄一は答へた。語をついで栄一は尋ねた。

『乞食だけですか? これらの人は? よくやつて行けますね』

『そらまた日に一升も一升五合も米を貰ふ事は普通ですからな。そしてそれをまた此処らへ来て売るのですが、一合三銭か四銭かに』

『フム』と栄一は感心して居る。話の方が飯より甘い。然し飯も魚の干物で案外甘かつた。四杯食つて、明日の朝の分に少し残した。

 男は稍々大きな声をして、

『あなたは明朝は何処へ?』と問ふ。

『さ、何処か知れませんが、彷徨つくのがすきですから』と答へたが、『遊説をして廻つても私を信用して呉れぬので困りますわい』と男は独り言の様に云ふ。

 栄一は茶碗と箸とを隅に片付けながら、

『何故です?』と尋ねた。

『こんな振りしてはどうしようもない』と栄一の新しい絣の衣服に目を付ける。

『何でも善いでせう。自分の主義さへ通れば』と笑ふ気味で云ふと、『世の中の人は心の中を読まんでな』と答へる。

『世の中の人は皆馬鹿と思はねば事業には取りかゝれませんよ……自信が必要ですね』と栄一は老人の心を読んだかの如くに云ふと、男は改まつた口調で、

『全くさうですな。これで私も越中の高林寺の僧侶で御座りますが、今時の坊主が酒色に溺れて居るのが歎はしいので乞食の真似でもいゝから、日本の為め国の為めなら決して身も厭はずに遣つて、一つ他の人の思ひ付いて居らぬ殖林事業の遊説をしようと寺を出たので御座りますが……もう寺を出て今年で十年難行のありだけはして来ましたが……実際どうも世間の人は馬鹿としか思へませんな』と述べたてる。

『さうですか。中々熱心に奮闘せられたのですね』

『随分やつて来ましたな』

『然し殖林と云ふのは一体どう云ふのです』

『私の云ふのはいや何に、面倒なことはないので、日本の国は材木国であるのに、材木を伐つて了ふなら景色を害するのみならず今に都会などは空気が悪くなる。それに家を建てる木は少くなる。それで色々な木を植ゑる必要があるが――桐は一番目に立つて育つ木で三十年すれば早や物になるから桐を家のもの一人に付いて一本づつ植ゑてはどうですか――と説いて廻るのですが――日本に五千万人の人口があるとしますと一人に付いて一本づつ植ゑるなら五千万本の桐の木が生へる理由で、之が三十年して一本五円に売れるとしますが五五二十五の二億五千万円の大金になりますからな。戦後の日本が貧乏で困つて居る時に恁那金儲けの道を忘れて居ると貧乏する一方ぢやと思ひましたので、日清戦争が了んで、すぐ思ひ立つて国を出ましたが……いや世の中の人は耳が無いので困りますわい――』と眼の下に皺をよせて冷やかに笑つて、俛いたまゝ烟管に煙草をつぐ。

 障子の向うに主人の罵る声が起るが、唯、罵る声許りで罵られる者は誰れか知れぬ。主人は酒の酔が廻つたのだ。

 栄一は煙に巻かれて唯苦笑した――此老人にもまだ若々しいドン・キホーテ式愛国心があるかと思つて。

 いや、ドン・キホーテ式は実際恁那封建的時代の老人の頭に多く湧くのだ。武士道は根本的にドン・キホーテ式だから寂しい人生だ。此老僧の孤独な情熱の生涯を思ふと何とはなしに冬枯れに会つた桐の葉が一枚一枚舞ひ落ちると青細い灰色がゝつた幹が真直につつ立つて、枝も僅か二三本幹の先についたなり西風に震へ上つて居るのが眼の前に浮ぶ様だ。が何だか老僧は詐欺師の様に思はれてならぬ。然し木賃宿階級の社会は之れだから愉快だと思はざるを得ない。

『それで効果はどうですか?』と、問うた時に急に二階から落ちる物音がして女の泣き叫ぶ声がする。主人の声で、

『此ん畜生奴が?』と物狂はしく聞える。栄一は障子を開いて立ち上ると、仏壇の横の梯子段の下に女が泣き倒れて居る。二階から三つ四つの荒々しい顔が、眼許り光らして下を覗いて居る。皆土方の連中だ。主人はすました顔してまた盃に酒を注いで居る。

 二階から覗いて居る顔が、『どうしたんで、一体?』

『ひきずり落したんぢやわ、二階へ逃げて来よつたのを、あしこまで上つて来た奴を』と話して居る。

 老僧は落付き払つて煙草を薫らして居る。ちつとも騒ぐ様に見えぬ。

『毎晩あれなんです――困つたものです。下等社会は』と云つて少し高く止つて居る。

 新見はゴールキイの小説をパノラマで見る感がした。胸が圧迫せられる様に重い。然し木賃宿の内は何か活気が満ちて居る。生命の水が湧いて居る様だ。

『あれ所ぢやないのです。一昨日の晩なぞ、そら非道い喧嘩しました、息子が帰つて来ましたので。なんでも此処の主人は此処のお神さんと後から一緒になつた様ですな。息子は先の女房の子の様ですから……』

 栄一はまだ老人の夢の様な経験談を聞きたいので、

『遊説の結果はどうですか?』と再び尋ねると、

『今の処は駄目ですな。どうも私を乞食の様に思つて信用して呉れませんからな』

 開いた障子を閉ぢようと向うを見ると主人は甘さうに飲んで居る。新見は喉が乾く様に思うた。六人の乞食は静かに眠つて居る。

『つまりあなたの風体を見て信用しないのですか?』

『まア、そんなものですな。之れが一月前までは袈裟があつたのですが、木賃で一晩泊つて財布も何にもかも取られたので袈裟だけ残つた奴を旅籠賃の代りに置いて、今は恁那襤褸の筒袖一枚になつたものですからな。人が信用して呉れんのも尤もですわ』

『それぢや、あなたの衣物と私の衣服と交換しませうか?』

と云つて見た。

『冗談ぢや御座りませぬ。虱の居る様な襤褸とあんた様のやうな立派な絣――』と相手にならぬ。

『さ、替へませう。あなたさへ、おかまひ無くば』と矢張り真面目に主張する。

『冗談ぢや御座りませぬぜ』と大きな声で断る。

 こいつは一つローマンチツク風を吹かしてやれと栄一は考へたので、

『何だえ。君、一枚や二枚の着物位ゐ。裸体になつても知れてるぢや無いかね。君は遣ると云ふものをよう貰はぬのかい? それぢや人に遣ることも知らないだらうね――』と一寸侠客風を吹かしてみた。老僧は頗る真面目に、

『感心した。あなたに、さう云はれて貰はぬ理由には行かぬ。よし貰ひませう。……然しあなたは豪い。世界にあなたの様な見上げた人は一寸少ない……』と嘆賞して居る。

 栄一はシヤツもズボンも脱いで褌一つで火鉢の前に坐る。老僧も衣服を脱いだ。二人は顔と顔を見合せて小気味よく笑つて暫く黙つてゐた。外は雨が急しく音をたてゝ降つて居る。栄一は『ローマンチツクな真似をした、他人の為めに着物を脱ぐと云ふ聖人の真似をした。我輩も聖人の中だ』など笑ひ乍ら其晩は煎餅蒲団にくるまつて寝た。

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