死線を越えて 01 死線を越えて

23話 二十二

3,272字 約7分 2022年7月10日 公開

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 翌朝暗い中に、一晩五銭で借す煎餅の様な蒲団から起き出た栄一は、筒袖の襤褸を着たまゝ大手を振つて我家に帰つて行つた。

 勢見の金比羅の下から大道を急いで歩いて居た時にこんなことを考へた――

『人間が大きくなると余裕が出来て来る。余裕が出来てくると何物にも驚かなくなる。人生が真似の様に見える。善も別に賞めた事でなく、悪も決して悪いものでなくなる。……悪を責めなくなり、悪に同情する様になると、悪をする余裕が胸の中に出来てくる……その代りに、善は宝石の様に珍らしくなる。そしてその時が人間の危機と云ふものだ。聖人か? 悪人か?――それで無ければ犯人と云ふ時だ』こんなことを考へ乍ら家の門へ来たのが午前五時半であつた。

 宅では栄一が火事をやる様なことをしたと昨日一日は騒いで、父は遂に頭痛がすると云つて市役所にも出頭せず引籠り栄一をどう処分して宜いかとお梅と二人で考へた。が、善い思ひ付きも無いので医師の三木浩を招いて決して他人には話して呉れるなと断つて栄一の全く発狂したことを告げた。三木は事情を聞いて理由も無く精神病院に送れと云つたが、新見は笑ひ乍ら、

『己の宅の息子が女に惚れて発狂したと新聞にでも出されては市長の名誉にも関するから、内々で出来る限り処分したいが――』と答へた。然し外に策も無いので先づ神戸の湊山脳病院にでも送ることにしようと一決した――徳島に脳病院が無いからと云ふ理由で――

 それで今朝は安心して寝て居る。

 栄一は門の戸が開かれて間も無く帰つて来た。下女に父が未だ寝て居るか否かを尋ねて、未だ寝て居るとの答を得たので奥へ這入つて行つた。

 奥にはまだ行燈がついて益則もお梅も父も寝て居る。栄一は父の枕元にかしこまつて坐り。――

『お父様。栄一で御座ります、栄一で御座ります……一寸お父様に申上げたい事が御座りまして帰つて参りました』と出来るだけ柔和な声を装うて父を揺り起した。父は暫くして目を醒ましたが無意識の中で云ふ様に、

『栄一か? 今日はもう要事があるからな、外へ出歩いてはならぬぞ』と至極穏当に云つた。それで、『お父様怎那御用で御座りますか?』と問ふと、父は黙つて頭を蒲団の中に入れた。栄一は父が何時に無い用事があるなどと云ふから不審で堪らなかつた。暫くの間栄一は黙つて居たが、父は一寸首をつき出してお梅を見て、

『栄一、用事があるからな、今日は二階の東の間から出てはならぬぞ』と叱る様に命じた。

 女中が『旦那様郵便が参りました』と父の枕元へ手紙を持つて来た。栄一は急に、鶴子からの手紙であるに相違ないと胸を躍らせて下女の持つて来た四五通の手紙を見た。

 有る? 有る? 厚い重い封筒の手紙はそれだと気が付いて、『これは私の』と手に取り上げて封を切つた。

 読んで行く中に栄一は手足が震へて胸が轟くことを感じた。鶴子はもう自分を馬鹿にし切つて居るやうだ。一生独身主義で送ると云ふことを繰返して書いて居る。そして何かその文字の下には、新見の家庭に対して不満である様なことも書いて居る。さうかと云うて全く栄一と関係を断つと云ふのでも無い。恋を白熱的にすると云ふ勇気も無く、全く冷かして了ふことも恐れて居るらしい。然し全体の調子は『否定的』である。それで栄一は地球から抛り出された様な気がした。

『こんなになることを知つて居れば』……と栄一は鶴子に裏切られたことを口悔しく思つた。然し仕方がない。『校則』『校則』と繰返して以後は文通が出来ないからと書き、之は消燈後廊下の電燈の光で夜半に書いたのだと書き足して居る。

 読んで居て堪らなくなつたから急に立ち上つて二階のスタデーへ這入らうと襖を蹴立てゝ二階へ駆け上つた。驚いた事には、自分のスタデーは蒲団の洗濯物の為めにでんぐり返してある。腹は立つが鶴子の裏切が猶憎い。泣きたくて堪え切れぬから、東の部屋へ飛び込んで行つて、打ち倒れた。そして泣いた。泣いても泣いても足らない。頬の筋肉がピリ/\する程泣いたが、まだ足らぬ。そして唯、身が慄へる。大分泣いたと思つた時に、益則が上つて来た。

『お父様が今日は学校へ行つてはなりませぬつて……』と伝へに来た。

『何故?』と自分に問うたが解することが出来ない。たゞ未来に対する恐怖と自分の室の荒されて居る事に対する想像と相混つて動悸の高くなるのを感じるのみである。

 然し恁那事ではならぬ。主義に立つて居る者が未来に対する恐怖とか、自分のスタデーの荒されて居る位の事で身震ひする様では駄目だと思つたから、身を起して窓に立つて見渡すと、晴れ渡る朝空に、川に沿うて生えて居る老松の緑が如何にも対照よく見える。北の方には裁縫女学校の寄宿舎の窓から頸を出して此方を見る者がある。呑気だと思つたから、恁那呑気な世界は僕には不適当だと、また室の隅に倚つて考へた。また鶴子の手紙を読んだ。読んで居る中に、

『栄一、栄一、栄一は何処に居るか?』と父が二階へ上つて来た。栄一は答へなかつたが東の隅に居るのを見て、

『栄一、貴様はな、気が狂れて居るからな、暫らく学校を止めて保養した方が善いと思ふがどうぢや?』と父は顔色を変へて云ふた。

『お父様、私は何にも気が狂つて、居りませぬよ。気狂ひでも何でもありませんよ』と栄一は答へたが、父はじろ/\栄一の着て居る襤褸の筒袖を見て、

『それぢや何故、家を焼いたり、床の間を削つたりするのか?』と眼を瞋(いか)らせて問うた。此の問ひを待つて居た栄一は、

『お父様を善くしたい許りに――私の胸を悟つて貰ひたい許りにです』と答へた。父は憎い笑ひを洩らして、

『己を善くする? お前が気が狂うてゐて、どうして己を善くする事が出来るか』と冷酷に云うた。『お父様がお梅や外の女に現をぬかさなければ何にも気は狂ひはせはしないのだけれども……』と泣く様に独言を云うて、暫く黙つた。然しその時『僕の様な者を気狂ひと云ふのだらうかな』とも考へてみた。

『お前の着て居る着物は何ぢや、それは。そんな物を着て帰つて気狂でないと云へるか?』と父はまた笑うた。そして今度は稍改まつた口調で、

『栄一、お前、今は気がをさまつて居てもまた気が狂ふと困るからな。気の静まつて居る中に、全く気が狂はないやうになるまで、脳病院へやつてやるから、そこへ行つて呉れよ』と宣告した。

 脳病院と聞いて栄一は突然立ち上つて父に近づいて行つた。そして父の顔を見詰めながら、

『脳病院に這入れえ? 這入ります。仰しやる通り。もし宅に居るとお父様や御家内を傷けることがあるかも知れぬと仰しやるなら……然しお父様はいつ私の云ふことを聞いてくださるのです』と涙を拭き乍ら尋ねた。父は無頓着に、

『それぢや行くな?』と駄目を押して立ち去らうとした。其時栄一は少し躇つたが、つか/\と進んで行つた、父の袖を捕へて急に子供心に立ち帰つたかのやうに――

『お父様。何故私を脳病院なんぞへお入れなさるのですか?』と尋ねた。然し父は栄一の目を睨んで、

『お前の眼付がな、普通の人の様になれば出してやるわ。……栄一、そこを放せ』と云うた。

『放せ、栄一そこを』と捩ぎ取らうとする。それで栄一は……

『お父様、それでは私はもうあなたと一生お目に懸りませぬ。私とあなたの道はあまりかけ離れ過ぎて居ります。……お父様、私はこれで一生のお別れをいたします。私は私の道を急ぎます。そしてあなたにはあなたの朽ち果てた古い道を歩ゆんで下さい。私は小さい脳病院に行く代りに大きな世界の脳病院へ、之から出かけて行きます。……それでは、お父様、さよなら、私を産んで下したお父様、さよなら……最後に私はあなたを拝んで、之を今生の見納めにさせて頂きます』と云つて、栄一は合掌して父を拝して、涙を拭き乍ら、そのまゝ家を出た。

 外は朝日が輝いて居た。栄一は思はず独言を云うた。『あゝどうしてまア日本の家庭はこんなに暗いのであらうか、外はこんなに輝いて居るのに?』と……

 その晩栄一は叔母から少しばかりの金を借りて神戸行の三等客となつた。……乞食坊主の着て居た筒袖そのまゝで。

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