死線を越えて 01 死線を越えて

25話 二十四

3,909字 約8分 2022年7月10日 公開

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 父は遺言も何にもせず死んだので、親族会議で遺産取り調べをしたが、家屋敷地が二ヶ所にも三ヶ所にも抵当に這入つて居るには全くあきれて終つた。

 栄一は凡ての会議に与からずに日に日に勉強して居た。二週間位はどうなることやら栄一には薩張わからなかつたが、ある時大阪の安井の叔父が事情を聞くので一々話したが吃驚して居る。そして叔父は同情を持つて『お前は、兵庫の店を甘いことして遣るから、あしこをやつて行け。己れが益則と義敬の二人を引取つて世話するから、何にも心配することは無い。田舎のお母様は、あれでは少し気の毒だが、自分の貯金も大分あるし裏座敷を残すことにしたからあれでぢつと居て貰はう……』と云つて呉れた。叔父は笑の事を全く忘れて居る。それも其筈、笑は父の死んだと云ふ事さへも知らず、勿論帰つても来なかつたからである。

 万事は進行した。

 大きな家は通町の松田が抵当の担保として受取ることになつた。本妻は裏座敷へ這入つた。大きな納屋と藍の寝床は皆壊されることになつた。益則と義敬は大阪に、お梅は二千五百円を貰つて料理屋を開店することになつた。栄一は兵庫の運送店へ来た。

 栄一は実業に自分のジニアスがあるとは思はない。勿論彼の希望では無かつた。然し彼は今直に下層社会に飛び込んで行く勇気は無かつた。権蔵部屋と木賃宿は彼には余り暗かつた。それで実業を一度経験する事も主義の運動の為めに必要な事であると自ら弁解して、安井の叔父の言に従ふことにした。今栄一はあの辛かつた権蔵部屋生活の二ヶ月を忘れることに努力した。

 栄一が兵庫に来てから、栄一は世界が変つた事を自覚した。自分は主人だ、まづ云へば資本家だ。然し自己が客観に影を延ばす事はまだ遠い事で、自己はまだ真の自己を発見する事は出来ぬと悲しく思うた。

 今は自己の凡てを捨てて、社会に化身しようと覚悟した。五月の始め頃の勇気と熱烈とは既に失せて、苦い客観の権威が固く自分を縛め上げ、泣くにも泣けず、叫ぶにも叫べぬものにして、深い海の底に沈めにかけて居る様な心地がした。近頃は自己の破滅を思はずには居られなかつた。

 放浪中鶴子から一通の手紙も手に入れなかつた。が、こちらも一通も送ることが出来なかつた。

 また放浪中、奮闘的生涯の苦痛は到底女の如き弱い者が堪え得べきものでは無い。鶴子と云へども所詮自分と一緒に未来に続く苦闘に堪えることは出来ぬと思つたから、恋は一種の罪だとして捨てゝ置いた。また不思議に昼だけでも恋を忘却した。いや少なくも忘却せんと努力して居た。

 然し人間のあせつて居る都会に出て、運輸事業を始めると、自分と云ふ袋には全く底が無い事を自覚せずには居れぬ。学校と云ふ、社会に関係の無い所では底なしでも善かつたが、今は底がいる。此底は何に? 布片では駄目だ。『女か? Woman Soul ?』と栄一は胸に手を置いた。が、今になると、名誉も得られず、恋は破れて自己が段々と収縮する。無限に延ばした翼が一枚一枚羽根を落して今は筋までも切り断たれかゝつて居るのだと思うた。

 運輸事業を始めた。老フアウストの如く海に望んだ。然し何処にメフィストフエレスが潜んで居る? 何処に神秘がある? 何処に堤を造つて海を干すか?

 栄一は権威を持たぬ。出来るだけ謙遜して、郵船会社に、自分の店に、さては沖に繋留る船に立ち働いて見た。社会主義の実現とか無政府主義的自由とかは思ひもよらぬ事だ。大きなミネソタ号が栄一を乗せて笑つて居る。

 栄一は朝五時から起きて勉強する。八時から小僧六弥と一緒に船積に行つて晩の八時で無ければ帰つて来ぬ。晩に船積から帰つて来て肉を食ふのでも無ければ、酒を飲むのでも無い。それかと云つて恋しい人が待つて居るのではない。また恋の興味も湧かぬ。女と云ふものが無ければ淋しいと思ふが――神戸へ来て特別に――然し女の用事は何かと思ふと早や飽きが来る。女と云ふものは唯肉付がよく皮膚が滑らかで綺麗で、男がその横へ行くと少しの間だけ快感を覚えさすものだと定義を下すと、そんな快感が五年も十年も続くであらうかと心配する。唯『書物、書物』と、少し金廻りが善いと好きな哲学書を多く東京の丸善から取り寄せた。で、船積から帰つて、此書物の間に身を投げて卵と牛乳を啜りながら横になるのであつた。淡路出の四十恰好の下女のお徳が『旦那様夕飯が少し遅くなりましたが……』と云つて来るまで外国雑誌の評論でも読んで居る。淋しい。膳に坐つても菜食主義だ。御馳走のある筈が無い。海苔で舌鼓をうつ。『ア、ヒユームの様に妹でも居れば』と思ふが、妹も居らねば猫も居らぬ。栄一は神戸に来て直に妹の行衛を尋ねて見たが何処に隠れたか一向知れぬ。頼んで置いた吉田由太郎も妹を馬鹿の様に云つて居る。由太郎の宅には寄りつきもしなかつたさうだ。寝る時になつて男の友人でもあればと思ふが、今迄一人として心からの友人の無いのが悲しい。然し鶴子が……と思ひ出すと手を握り合つたり、抱き付き合つた、友愛の情の細かであつた過去を思ふ。『セツクス』を抜きにするならば鶴子はよい友人だと……慕しく、なつかしくなる。『鶴子は立派な女だ』と独言を云ふて、その友情が求めたい気がする。『友としての鶴子!』と繰返すと胸に聖い泉が湧く様だ。蒲団の中で恁那事を思ひながら本を読むといつの間にか睡つて居る。之が一日だ。

 然し不愉快な事許りでも無い。小僧と番頭と下女が、可愛がつてやる為めに愛嬌に充ちて来た。また経済上思つたよりも融通が善いので、店員に俸給を増してやつた。それで此調子なら店員等と利益配分主義の方針で事業を拡張して見ようかと云ふ夢が出来た。之は愉快ではないとは云へなかつた。之が十月の終りの事である。

 十一月の始めから芝居見物を始めた。人情史を研究して見ようなど考へ付いて、十一月の満月の晩栄一は子猫を拾うた。それは夜更けに十二時過ぎ、相生座からの帰りであつた。子猫が一匹湊川の空地で泣いて居た。まだ小さい猫で、瞼に赤い所が多かつた。赤い細い縮緬の頸玉をして鈴を付けて居たが、馬鹿に痩せて、白と黒との斑の毛が格別長い様に思はれた。

 憐れみ深い栄一は之れを拾ひ上げた。懐へ入れてやると、今迄泣いて居た小猫がちやんと泣きやんで唯喉をグワラ/\云はす許りだ。折々懐の中で大騒動を始める。栄一は笑ひながら、捨てゝ置くと段々胸を攀ぢ登つて栄一の鼻息を伺つて『ニヤオ』と泣く。そして湿り気のある小さい柔かな鼻先を栄一の鼻につける。心持ちが悪いが、憎くもない。暫くするとまた『ニヤオ』と泣いて懐の中へ這入る。首だけ襟から外へ出してやると月を見て居る様だ。栄一は生命に疲れた恋人を擁いて居る様に感じた。月との対照が殊にいゝ。本町を歩みながら色々と考へて見たが、猫が愛らしい。月影が瓦屋根に落ちて夜露の多い所が光る。電信柱と電線の影が道に写つて、白い絹に紋様をぬいた様だ。月夜は街でも美しく見える。然し栄一は猫を抱いて此美しい市街美とでも云ふものを考へてみた。一寸前にみた、茜屋半七と三勝の心中劇がさあと幻の様に現れる。瓦屋根が銀のやうに光る。

 翌朝小猫が店の大評判となつた。穂積は『こいつは牝だ!』と大騒ぎを始める。『若旦那が抱いて寝たら丁度いゝわ』と細川が冷かす。四日の間、朝から晩まで此猫で皆笑つた。栄一は毎晩抱いて寝たが、朝になると、下の方から這ひ出て主人の鼻息を伺つて、例の小さい柔かな湿うた鼻を、栄一の鼻につけて上唇を舌で嘗める。『猫のキツス!』だと栄一は独り笑つたが、起きて見ると蒲団の下に小便や糞をしてをる。之を店員に話すると皆『若旦那許りぢや無い。私の処にも、私の処にも』云ひ出る。四日目の昼は雨降りであつたが、此猫が無遠慮にも穂積君の法被の上へまた遣つたので、穂積君大いに怒つて、小僧の六弥に命じて浜へ捨てに遣つた。小僧は平べつたい顔に大きな鼻をして、大きな薄ぺらな唇から、嘲笑の声を洩らしながら、浜へ捨てに行つた。いつもならば六弥は穂積のいふことなど聞くのではないが喜劇の結末をつけようと思つて、云ふことをきいた。小僧が帰つて来るのを待つて居た若主人は『どうした?』と尋ねた。『あまり可哀想であつたから、浜の菓子屋へやつて来た』と云つて居る。それで喜劇の一幕が済んだ。

 十一月の終りになると店の者が公然と遊廓の話を若主人の前で話し始めて、細川の如きは春画を煙草入れの中から出して栄一に見せた。あまり馴々しくなつて来たので増長してきたのだ。栄一は別に此誘惑を恐ろしいとも思はなかつたが、面白い現象では無いと思つた。

 猫の事件の済んだ次の晩、穂積と楠公さんへ散歩した。穂積は栄一を大弓へ引張る。栄一は君子らしい事を云つて帰つて来かけた。然し穂積は平気で這入る。栄一は穂積の様な大胆で無いのを残念に思うた。社会研究だ。何にも見て置く必要があるとまた大弓の前へ来ると、綺麗な凄い程婀娜(あだつ)ぽい女が出て来て栄一を引張る。『お連れがお這入りになつたのに、そんなにしてお帰りにならなくても善うおますやないか?』と神戸弁で云ふ。すると今度はも一人の女が出て来て栄一を引張る。穂積が出て来て、『もう少ししたら帰りますわ、内へ這入つて、少し間待つてん』と云ふ。仕方なしに這入る。穂積は美しい女を掴へて冗談許り云ふ。然し栄一は知らぬ顔をして居る。穂積は、栄一の菜食主義の事や猫の事を女に喋る。栄一も別に悪い心持ちはせぬ。暫くして出て来る。二人の女が、『またお出やす』と送り出す。栄一は全く女の魔力に驚いた。穂積は色々女の事を喋る。然し栄一はまだ堅固な積りで居る。

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