死線を越えて 01 死線を越えて

26話 二十五

2,004字 約4分 2022年7月10日 公開

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 東京では『新紀元』の一派と柏木派が分裂して後、『新紀元』は廃刊する、I氏やF女史がその後を引き継いで小さい新聞を発刊して、罰金ばかり払はされて居たが、新見はそれを三河の山奥に住んで居る主義者から聞いて、僅かではあるが、罰金の中へ十円送つた。栄一は、何とかして日本に於て民主思想が、もう少し徹底的に宣伝せられねばならぬと考へたが、自分の今の立場ではどうすることも出来なかつた。栄一には、英国の社会改良家トインビーの様に貧民と共に一生を送りたいと云ふ希望が益々盛んに起つて来た。

 それで、栄一は凡ての性の慾望を握らんとした。然し、周囲の誘惑があまりに強過ぎた。そして、最近起つて来た、自然主義文学の感化は栄一の胸にも強く感ぜられた。栄一は美と女に敗けることが、何だか勝利のやうに感じた。

 丁度十一月の末であつた。栄一は村井に頼まれて、神戸の市会議員の三級の補欠選挙に運動せねばならぬことになつた。その時の候補者には、栄町三丁目の鳥井運送店の主人が三級候補で出たのであつたが、運送仲間だと云ふので、栄一は無理矢理に引摺り出された。栄一は演説の一つ位であればすると云ふのであつたが、演説会は、あとにも先にも、たつた一回開いた切り、それも福原遊廓の近くの菊水亭と云ふ四百人位ゐしか這入れ無い寄席であつた。弁士は多く雑誌屋や新聞屋――それも月に一回出すか出さぬか、広告専門で、三ヶ月一回、新聞紙法に違反しないやうに出して居る。名前だけ大きな『日本金物新聞』とか、『関西醤油新聞』とか、『材木新聞』とか、『阪神船具新聞』とか飛び切り大きなものでは『海の大日本』とか云ふ名の附いた妙な半分政治ゴロのやうな、地方政治専門家であつたが、話は拙いものばかりであつた。それで、栄一の新しい思想と、訓練された演説は充分聴衆に感動を与へた。翌日の新聞は、新見栄一氏の雄弁は特に聴衆に感動を与へたなど書いて居た。そのわけでも無かつたらうが、その三日後に、鳥井氏は当選したのであつた。

 そしてその当選祝ひが、会下山の筒井花壇に開かれたが、その席へは是非新見君が出席して下さるやうにと、海運月報社長の小畑が誘ひに来た。そして栄一は小畑と一緒に、筒井花壇へ行つた。そこで栄一は生れて初めて、芸者にお酌をしてもらつて一杯だけ酒を呑んだ。そして初めて芸者の踊りと云ふものを少人数で見た。栄一はこの時初めて、多くの人々が堕落することの無理で無いことを知つた。宴会に連なつて居たものは、鳥井氏を入れて、合計三十一人で有つたが、新見を除いて外は凡て先に云つた、小つぽけな月刊新聞社の記者連ばかりであつた。そして栄一は此処で、地方の政治と云ふものはどんなものであるかをよく理解した。鳥井と云ふ人は店の村井に云はすと、早稲田の専門学校の出で、長く神戸で回漕業をやつて居る人ださうである。温厚な人らしい。然し栄一とは別に立ち入つた話もしなかつた。

 唯、小畑は村井から聞いたことを同志に吹聴して居た。それには新見は余程大学者だと云ふのであつた。宴会の席では頗るもてた。小畑は特に芸者仲間の事情によく通じて居ると見えて、栄一の隣りに坐つて芸者の名を教へてくれたのみならず、芸者を紹介してくれた。宴会は十二時半過ぎに果てたが、小畑はまた栄一に第二次会を開くから三人の芸者等と一緒に花隈まで行かぬかと誘うた。そして栄一は美の探求者として拒む気になれなかつた。花隈の美しい電燈が多くついて居る中に『玉の家』と書いてある下に五台の車が止つた。車が止つた時に格子戸の中から、女の黄い声がきこえた。そして五人の車から出るのを出迎へた。此処では別に酒も何にも出なかつた。然し、姉さん株の『喜代之助』と云ふ名のついた女が特別に栄一を大事にしてくれた。花壇から一緒に帰つた小秀と云ふ、栄一も美しいと思ふ二十一二の女は、恥しさうな風をして、話もあまりしなかつた。一緒に帰つたものゝ中には、も一人梅若と云ふのが有つたが、頭痛がすると云つてすぐ二階へ上つて寝てしまつた。小畑は今夜は、此処で泊ると云ひ出した。そして、新見にも是非泊つて行けと勧めた。長火鉢の前で、みんなで坐り込んで女達の美しい香を吸ひ乍ら、栄一はみんなの冗談話に尻が落付いてしまつて、立ち上つて帰る勇気も出なかつた。喜代之助も親切に遅いから泊つて帰つて下さいと勧めた。そして、軈て、小秀は二人の床が並べて延べられてあることを告げてくれた。栄一は、世界は便利に出来て居るものだと感心した。芸妓屋と云つても別に下品な猥褻な所とて少しも無かつた。徳島の父の内に居るよりかより温く、人間味が充分に有つた。それで彼はみんなの親切を感謝して、その晩は小畑と二人で同じ室に寝た。

 翌日、栄一は八時頃に『玉の家』を出たが、喜代之助は、小秀を連れて、栄一の店へ遊びに行つても善いかなど云うて居た。栄一も『遊びに来て下さい』と云うて帰つた。

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