27話 二十六
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翌日、喜代之助は長い手紙を車夫に持たせて、鍛冶屋町の新見の店まで届けた。開け放した栄一は、それを店のものに見せた。さうすると村井も、六も、穂積も、女中のお徳も、大きな声で笑うた。
その日の午後、店に二人の洋服を着た立派な紳士が車で乗りつけて来た。栄一は変に思うたが、それは『神戸海上保険』の人々で有つた。村井はその人々を迎へて、二階の応接間で一時間許り長々話して居たが、二人が帰つた後に、荷物の『送り状』を書いて居た栄一の所へ村井がやつて来て、
『若旦那えらいことが起りましたぜ!』と云ふ。
栄一は、慌たゞしく、
『何です?』
と、尋ねた。
『大福丸が、一週間程前の暴風雨に、遠州灘で難船してマストは折られる、梶は取られる、荷物は三分の一流して、漂流して居た所が、アメリカ行のコレヤ丸に発見せられて、船頭九人だけは一度救助されたが、――なんでも船頭は生命だけは助けてやるが、船と荷物は捨てゝしまへと云はれたので、住みなれた船を捨てかねて食糧品だけを貰うて、また漂流をつづけた処がいつの間にか、伊豆の大島へ近づいて居たのですが、島の人は漂流船だと云ふので早速救助船を出して、船を港に入れてくれたさうですが、村の人は強慾なものだから、船に残つて居た荷物の半分位ゐはまた村の人に盗まれてしまつたさうです。神戸海上では、この電報を一昨日受取つて、すぐ、伊豆の何とか云ふ港へ人をやつて居るさうですがね……それで相談をして来たのは「丸二」の東京積のアンモニア五百俵ですな。あの荷物の半分は流れてしまつて居るのださうです。所がまだ二百俵位ゐは水濡れもなく大丈夫だらうと云ふのですがな……保険会社の云ふのには、沈没と違つて、流失ですし、それも、態々船頭が海の中へ抛り込んだものですから、会社ではどうも、保険金を、全部払ふことが出来ないから、お見舞金で辛抱してくれと云ふのですがな……勿論、なんださうです、もし、あれを、船の底へ穴をあけて沈没させて了ふか、それとも荷物を全部流失させて居ると、保険金は、全部支払ふと云ふのです。そこで、私は尋ねたのですがね、それでは、今這入つてゐる港でゞも船の底に穴をあけさへすれば保険金はもらへますかと尋ねましたところがね、「差上げます」と云うて居りました』
『困つたね……『丸二』は知つて居るのだらうか?』
『さつき、二人で寄つて来たさうです。……なんでも、石田の船は播州の飾磨沖で、難船した時も、こんなことがありましたよ……残つて居たアンモニアに、わざわざ、水をかけて駄目なことにして、全部の保険金を取つたさうです』
『そんなことをしても善いのかね』栄一は、資本主義の経済学と云ふものは、変なものだと、すぐ反問した。
『そら、かまはないのですよ。神戸海上の云ひ分によりますと、なんでも「丸二」さんは、一年に二万五千円位ゐの、保険金を払つて居るさうです。それで、今度の荷物の保険料は総額四万円たらずださうです。だから、この後御愛顧を受け無くてはならぬから、船を沈没させてくれるか、荷物を全部役にたゝぬものにしてくれるなら、保険金を支払ふと云ふのです』
『妙なことを云ふものだね……僕にはそんなことは、わからぬがね』
『そこでですね、私は船は沈没させることは出来ないから、荷物を海へ抛り込んでしまふか、水で濡らすかすると善いと思ふのですがね』
話をして居る中に『丸二』の店から電話が懸つて来た。話は矢張りそのことで有つた。村井は弱つて居る。アンモニアは、少し在荷が不足なものだから『丸二』でも欲しいと云ふのである。さうかと云つて、保険金は欲しいし、兎に角取調べに、人を送つてくれと云ふのであつた。
それで、栄一は、村井と相談して穂積を送ることにして、電話で、『丸二』へさう云うてやつた。そして栄一は昼飯を早くすませて、早速穂積を沖へ探しに行くことになつた。
穂積は、晩の七時半の神戸発の一二等急行で、丸二肥料株式会社の店員と、伊豆の大島へ急行した。その晩栄一は、喜代之助と小秀の方に引かれる様な気がしたので、花隈の方へとぼとぼ歩いて行つた。然し何だか気恥しくてならない。
丁度、福原口まで行つた時に太鼓の鳴る音がするので、何かと思つて見ると、福音伝導隊が、路傍で説教して居るのであつた。栄一の宗教心は、その晩に限つて特別昂進して来た。栄一は、喋つて居る若い青年と自分とを比較してみて、自分の不甲斐無さを憤慨した。それで、花隈へ行くのを中止して多聞通四丁目の福音伝道館までついて行つた。そして説教の終るまで聞いて居た。新見は説教にさして感じもしなかつたが、労働者の証しには非常に感じた。低能に見える川崎造船所の人夫だと云ふ、三十五六の男が熱心に自分が無頼漢であつた過去より、イエス・キリストの救によつて、救はれたのは全く恵であると証して居る。栄一はそれには全く感動させられて、涙が流れて抑へることが出来なかつた。栄一は自分の現在と耽溺の迷路を考へてみた。そして、決心してクリスチヤンにならうかと考へて見た。然し、まだ新見には哲学が邪魔して居た。彼は三位一体とか、処女懐胎とか、昇天とか、奇蹟とか、わけのわからぬ多くの宗教的迷語に共鳴することが出来なかつた。
牧師と云はれる人は四十恰好の痩ぎすの背の高い如何にも感傷的な――寧ろヒステリツクな、同じことを繰返し、繰返し云ふ人であるが、救はれた人は『恩の座』に出て来いと聴衆に――二三十人しか居らなかつた――云うたが、二三人のものはつか/\と出て行つたが、栄一にはその勇気が欲しかつた。
栄一はどうしても、悔改めたいと思つた。然し、今夜会ふ可き筈の美人――殊に小秀の誘惑の方が、宗教よりも強かつた。それで、栄一は悔改めの為めに、恩の座に出て行く勇気も無く、すご/\そこから出て来た。そして、花隈まで急いだ。
花隈の方は明るかつた。栄一は、福音伝道館の中はなぜあんなに暗いものかと考へ直してみた。兎に角山手の芸者屋町は明るい。美しい着物をきた、目のぱつちりと大きい、色の白い女が、水も垂れるやうな黒髪を島田に結んで、細い道ですれ違ふ、それだけでも、栄一はうれしかつた。
『玉の家』では喜代之助と小秀は、招きが有つたが、新見が来ると思つて、わざ/\それを断つて待つて居たと云ふ。さう云はれて見ると、何だか、もう少し早く来れば善かつたにと思つた。
小秀は、秋田美人で、如何にも美しい。今夜は特別に美しく見える。栄一はその傍に坐るだけでも大きな特権だと思つた。
栄一と小秀と喜代之助と女将と四人は長火鉢を囲んで坐つた。女将と云ふのは少しも女将臭くない。何処かの商人の妻君の様な風采があつた。小畑の昨夜の寝物語では、何処か元町の帽子屋の妾だとか云ふことである。
お茶が出て、お菓子が出て、喜代之助が今夜は『芝居にでも連れて行つて、もらひまほかと思つとりましてん』と話を切つたが、栄一のだんまりに座が白らけてしまつた。栄一の希望は寧ろ、小秀と二人で、昔鶴子と自由に恋の遊戯をしたやうに遊びたいことであつた。然し喜代之助は栄一に熱心である為めに、そんな注文は勿論出せなかつた。喜代之助は一人で喋つて居た。小畑の噂から小秀は『小畑さんは嫌ひだ』と云ひ放つた。喜代之助も嫌ひだと云ふ。小畑の煙草の吸ひ方の真似を小秀がする。その吸ひ方は神戸の市長さんによく似て居ると喜代之助が云ふ。それから市長さんの棚おろしが始まる。喜代之助は灘の酒屋の八木の旦那の妾宅の新築祝に市長さんが祝辞を述べるに困つた話をする。小秀は翌日の神戸新聞に、そのことで市長さんの悪口が出て居たが見なかつたかと尋ねる。新見は知らないと答へる。小秀はその報告をする。新見は堕落して居るのは、徳島市長ばかりでは無いと思つて苦笑した。
それから、市長攻撃が始まる。市長と芸者との関係が噂に上る。さうすると、
『一寸、姉さん、知つてる?』と小秀が大きな声で話を途中で切つて、『小畑さんの松浦楼の対方と云ふのには、県の土木課長の山田さんも郵船会社の篠田さんも通つて居るんですつて』と素破抜く。
『土木課長の山田さんが女郎買ひに行くの?』と喜代之助が眼を円くして尋ねる。
『えゝ』
『あの人はお子供衆は無いの?』
『五人もあるのですつて』
『それになぜ遊びに行くの?』
『奥さんのお腹の大きい時ださうです、なんでも』
それから栄一は郵船会社の篠田の遊び振りを喜代之助から聞かされた。そして威張つて居る篠田の裏面を聞いて彼は苦笑した。
こんな話をして居る中に梅若が外から帰つて来た。梅若は宴会の模様を話して居る。明日の晩は中尾の旦那に歌舞伎へ連れて行つて貰うんだと云つて喜んで居る。それを聞いて小秀は新見に、
『新見さん、明日の晩歌舞伎座へ連れて行つて頂戴ね』と哀願的に云ふ。新見はすぐ承諾した。喜代之助は、
『私もね』
と云ふ。勿論、栄一は拒む勇気も無かつた。梅若は時間を尋ねて居る。十一時だと女将が睡むさうな眼をして答へる。それで梅若はもう寝ると云ひ出した。さうすると喜代之助は、
『新見さん、今夜は私達三人の間に床を引いてあげまつさかい、泊つておいきやす、……女ばかりでは、余り淋しゆうおまつさかい、寝ながら話しまほ』と云ふ。
勿論栄一は之に反抗する勇気は無かつた。それで、栄一は小秀と喜代之助との間に別の床を取つてもらつて寝た。女達の付けて居る、香水が心持よく匂はれて、栄一は、凡ての問題を忘れて、たゞ性と肉との誘惑に床の中で震へた。然しまた栄一は之等の芸者達の性格が、鶴子などより以上に立派なものであることに気がついて、たとひ、之等の女達の或者の誘惑の手に落ちても、さう悲しむ可きことでも無いと考へた。