死線を越えて 01 死線を越えて

29話 二十八

4,331字 約9分 2022年7月10日 公開

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 次の朝栄一が二階の書斎で早くから読書をして居ると、

『若旦那、桟橋の篠田はんがいらつしやいましたよ』と小僧の六弥が云ひに上つて来た。(桟橋と云ふのは郵船会社桟橋支店で、川崎造船所の横の郵船会社の桟橋にある事務所のことである。)

『何の用事か知ら……お通りつて、二階へ』栄一は別に気にもせず云ふ。下女のお徳は……

『篠田さんが? あの店へよく来る? 肥へた、八字鬚の、金縁眼鏡の?』と座蒲団を、例の水竹先生の書を貼つた屏風の所から取り出す。篠田は栄一とは桟橋でよく知つて居る。店へも栄一が来てから三四度来たことがある。然し座敷へ上つた事はない。三四分、村井と大きな声で戯かう様な事を云つて葉巻を燻らして居るかと思ふと、プイと帰つて終ふ。そして村井が後で大きな声でカラ/\と笑ふのが常だ。

 少しすると梯子段の方に大きな音がする。四十恰好の大きな男が上つて来る。モーニングの洋服姿だ。

 篠田は、

『や失敬、新見君。今日は善い天気だね』と山高帽を畳の上へうつちやりながら、八字鬚をハンカチで拭いて衝立つたなり軽く礼をして云ふ。雀が裏の倉の屋根に四五羽囀つて居る。

 栄一は手をついて礼をした。

『さ、どうぞ、こちらへ――』と云ふ。

 篠田は床の間の書籍棚の洋書を見て、

『新見君は読むね』と大きな声で叫びながら、

『どれ一つ本を拝見さして貰ふか』と本棚に近く寄つて行く。

『フム、哲学書許りだね。然し、ア、此処にカール・マルクスの「資本論」がある。さうすると哲学者と云ふのでもないのかね。お、ウエステルマルクの「婚姻進化論」もある。僕等には解らんもの許りを読むね』と平気な調子で云ふ。篠田は極く書生肌でいつも快活な男である。それだから桟橋でも皆に好かれて居る。暫く黙つて書物に眼を通して居て、また、

『回漕店の御主人には惜しいと云ふ処だね――神戸の本屋でこれだけの哲学書を集めて居る本屋は少ないね……神戸と云ふ処は真実に本を読まぬ処だ――それだから馬鹿が多いや。アハハ……』と独りで笑ふ。実に大きな声だ。

 栄一は黙つて、篠田の探す本を見て居る。篠田はまた、

『新見君。君は回漕店の主人を止めて何処か専門学校の教授にでもなりたまへ。中学の倫理の教員位ゐなら一つ世話をしようか?』と思つた事を勝手に云ふ。

『然し中学校の倫理の教員は御免蒙りませうね』と答へると

『――いいや、実はね、僕の友人が三河の豊橋で生徒が二百許り居る私立中学を開いて居るのだがね。英語の充分話せる哲学の解る男が神戸あたりにあれば月に七十円位ゐで雇ふと云つて来て居るのでね――僕は今探して居るのだ』

『神戸で哲学の解る人? 神戸は赤いネクタイを付けて英語で一寸挨拶位ゐ出来たら善いのでせう』

『然し折々アメリカの神学校を出て神戸の商館あたりでブラツイて居る男があるからね。それを目懸けてゐるのだらう。アメリカで哲学を専攻した人格の高い人と云へば一寸地方でも幅がきくからね』

『さうですね。神学校帰りがありますね』

 小僧が下からお茶を運んで来た。

『然し、君は面白い本を持つて居る。君は詩をよく読むのだね』と云ひながら与へられた座蒲団の上へ胡坐をかく。気楽な男だ。

 下女のお徳が煙草盆を運んで来て篠田の前に差出す。篠田はポケツトから葉巻を出して火を付け乍ら、

『君は煙草は?』

『喫ひませんよ』

『そら感心だね、それぢや酒もだらうね』

『え、此頃は飲みません、私にや飲まなくても別に何とも感じませんから』

 傍に居るお徳は口を添へて、

『肉も魚も召上りませんのですよ』

『そら豪いね。一体そらどう云ふ理由で?』

『菜食主義でしてね……而もそれが極端な奴で』

『妙な真似をおツ始めたのだね』

『然し人間は肉を食ふのが不思議なのですよ。生理学上から云つても、胃の構造から歯の構造を研究して見ても、人間は菜食動物ですな……それで無くても蚊も虱も蚤も解放して自由と生命を与へるのですな。アハハアハハ』

『肉を食ふのが不思議だ? 君の様なグニヤ/\した身体で肉を食はな、死んで終ふぞ。君』

『なに肉を食はぬと死ぬのなら、日本の百姓は皆死んでしまひますよ――』

 篠田は机の上の帳に目を付けながら、

『実際人間は肉を食はぬのが真実だね。釈迦も殺生を禁じた位ゐだから。……然し僕は肉を食ふね』と、大きな声で笑ふ。

『それは何んだね』

『なにつまらん、頭の中の日誌ですよ』

『それから向ふに積んである紙は?』

『これですか?』……と栄一は二三百枚畳んである紙をバラバラとさせ乍ら……『これはお笑ひなすつちやいけませんよ。「人間の顔の歴史」の研究です』

『そら奇抜だね』と篠田はまた大きな声で笑つた。

 暫く二人は沈黙して居たが、篠田は少し改まつて、

『新見君。今日はね……実は少々御頼みがあつて来たのですが――聞いて呉れるかね』

『聞きませう。あなたの事ですから、アハハ…』と軽く笑つた。多分金の事であらう。此間花隈で噂されて居るやうな遊びをするのだから暮しに困つて居るのだらうと想像した。

『君の事だから聞いて呉れるだらうと思つて来たのだがね――また君の家のことだから運転もきくと思つてね……来たのだが、君、誠に恐れ入るが金を少し貸して呉れまいか?』篠田は少しも恥し気なく云つた。

『アヽ、宜しい。幾何?』

『百円程欲しいのだが』

 栄一は受合つたものゝ『百円?』と胸の中で聞いて見たが男らしく、

『今日御入用ですか?』

『いや、今日でなくても宜いのですが、此暮には是非欲しいので、ね』

『暮までにですか? 出来ませう。二十五日頃までには融通致しませう。百円位ゐなら出来ますよ』

『有難う。何分宜敷く頼みます……国元の妻が今度病気になつたとで金を送れつて云つてくるのでね』

『はア、宜敷う御座ります。屹度御用立申しませう』

『それぢや、僕はもう何も用事がないから帰らう――朝早くから失敬しちやつた。新見君』と平気で云ふ。が、眼の下を一寸赤らませて眼鏡の底で瞳をモジ/\させてゐた。

『さうですか、それぢや失礼します』と新見も別に引き止めやうともしなかつた。

 篠田はまた山高帽を取り上げて下へ降りた。

 新見は送り出しもせず、

『それぢや、これで御免』とまた机の前へ坐つた。女中は店まで送り出してまた二階へ上つて来た。小僧の六弥もあがつてくる。煙草盆を取りに来たのである。そして栄一を見て、

『あの篠田、大将、(栄一のこと)今日は金借りにでも来たのですか? あいつ桟橋で何時も威張つて居やがるのに、今日はヘエコラ/\頭を下げて居やがつた。あいつは桟橋で一番生意気な奴だつせ』と、立つたまゝで云ふ。

『だつて、篠田さんは、お前、一番桟橋でえらいのではないか?』と栄一が答へると、

『あの人は東京の高等商業学校の卒業生ですつて? その学校卒業したら、あんなに威張れるのですか?』……一寸物干台の方を見て居る。『アヽ、今日は善い天気だ。山へ遊びに行きたいな』と窓の方へ飛んで行く。六弥は年が十四だ。腕白盛りである。『やい、六。そんなに走つたら埃が立つぢやないか』と栄一が叱つても知らぬ顔をして物干へ出る。

『錨山が見える、錨山が! 山へ遊びに行きたいなア』と六弥は叫んで居る。

 お徳が六弥に、

『篠田さんは桟橋でいつでも何をしとるの?』と尋ねると、

『あいつは支店長の次席ぢやから、椅子に腰かけて威張つて許り居るワ』と答へて六弥は篠田の威張り方の真似をして居る。

『唯威張つて許り?』

『あいつ嬶を国に置いておいて、福原へ遊びに行つて仕方がないだつせ。大将、あなた聞きましたか?』と閾に腰を下ろした足をブラン/\させながら、六弥が尋ねる。

『あの豪らさうにして云ふの』と女中が笑ふ。

『然しあいつ、中々幅がきいてゐるからな。外の小僧は皆あいつにビク/\して居るね。己だけぢや、あいつの机の処へ行つて悪戯してやるのわ』

『豪いね』と女中が続けて笑ふ。

『篠田に此間英語を大分教へて貰ひましたぜ、ね、大将。……ドグと云ふのが犬で、スチーマーと云ふのが本船で、ランチはランチ。それからウエブが波でせう。それだけぢや、もう皆忘れて終うた。アまだ覚えて居る。チモニーがフイトルでせう?』

『よく覚えて居るな』

『大将、僕に少し英語を教へて呉れてやおまへんか?』

『それだけ知つて居れば上等だらう』

『これだけ位、ほんまに、こゝにある本が皆スラ/\と読める様になればな――新見回漕店で丁稚なんぞして居りやへんのやがな。大将だけ実際英語が喋れたら、桟橋へ行つて威張り散らかしてやるんぢやけど――クラン、チユン、キチ、パーと云ふ風に英語許り喋つてやるんぢやがな。異人をつかまへて話が出来ん様ぢや面白うない』

 お徳は腹を抱へて笑ふ。

『威張つたらそれで善いのかい?』

『威張つて、金儲するんです』

『欲が深いね。威張る人には金は無いものだよ』

『それぢや威張るだけで善いから、若旦那、英語を教へて呉れてやおまへんか?』

『夜学校へやつてやらうか?』

『夜学校、英語の? 行きますわ、やつてくれるなら』

『六、もう何時だ?』

『九時でせう』

『村井が来たか、来ないか降りて見て来い』

『三吉さんは今日は来ませんわ。大将、此間の新聞を見たでせう』

『ウム、見た』

 下から『六――』と呼ぶ。確か村井三吉の声だ。

『ア、三吉が来やがつた。また大きな声で人を呼びやがる。知らんわ。「噂すれば影とやら」と云ふのは真やな、な。お徳さん……村井は山の手の高等淫売に血を啜られて居るのに違ひなし。……大将。北長狭(ながさ)の家と云へば、そら穢い家だつせ』

『さう? 六は行つた事があるか?』

『何度も行きましたわ』

 また下から『六――』と叫ぶ。

『知らんわ……ね、大将、村井の嬶はいやな奴だつせ。吝な吝な、それは吝な――』

 お徳は六の顔をみて、

『面白い顔をするの……然し六さん、下へ行かな村井さんがまた怒つて来ますよ。下へ降りていらつしやい』

『ウム、あの三吉が怒つたつて何が恐ろしいものか……頸を前に出して歯をむきだしながら、腕を前に出して軽蔑の意味を現す……それにね大将、子供が三人あるのに、どいつも、こいつも皆お凸さんでね。それは/\、乱暴な餓鬼許りだんね――オ、三吉が上つて来よる』と梯子段を上る足音を聞きつけて、小僧は急いで物干へ飛んで出て、屋根の上に隠れる。

 果して足音は村井だ。襖の蔭から身体を半分現して、栄一に礼もせず、

『六の野郎、また隠れやがつたな。今二階に声がして居つたが』

と、呟きながら下へ降りて行く。

 栄一も女中も気の毒で、村井の顔も見られず、村井が降りて行つた後で顔を見合せて笑つた。

 六も屋根から降りて来て笑つた。それで栄一は『六』を連れて、また沖へ船積に行つた。そして沖の船積は栄一にも最も楽しいものであつた。

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