30話 二十九
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栄一は自分が商人に適しないことを、つくづくと思うた。そして自分が今日の社会組織に、どうしても合はない人間であると云ふことをも考へて見た。さうかと云つて今直に店を捨てる勇気も持つて居なかつた。また夏のやうに権蔵部屋に這入る勇気は無いし、新聞記者にはなりたくあるが、市会議員選挙当時に会つたやうな連中の中へ這入る勇気もなし、自分に自分が愛想がつきるやうに感じた。
凡て為すことに興味が湧かない。労働が縛られたやうに考へられてならない。そして選挙運動以来自分の心が全く喜代之助や小秀の為めに荒らされて行くことを思うた。さうかと云つて、彼はそれに打勝つべき工夫を知らなかつた。自分が今堕落すると共に自分の周囲のものが凡て堕落して行くことを見た。そして新見回漕店の運命も永くは続かぬと考へた。
彼の淋しい心は今の処は、女ならでは慰め得られないとも考へた。然し一面に於いては、聖くならんとする意志、社会に奉仕せんとする意志は猛然として、彼の心の中に頭を擡げて来たのである。
それで、彼は、玉の家へも、十一月の末に、喜代之助と、小秀とを芝居に連れて行つた切り行かなかつた。彼はこの生活の危機に、宗教で無ければ切り抜け得ないことを痛切に考へた。それで、年の暮が近づくと共に、彼の宗教心は一層昂進して来たので、毎晩福原口の福音伝道館へ通うた。いやな感じが無いでも無かつた。然し彼は今は外部の形式や教条を八釜敷く云つて居れなかつた。それで、いつも黙つて説教や証しを聞いた。そして自分だけが味ひ得る宗教味と云ふものが大抵何であるかと云ふことの見当が多少ついた。
年の暮の総勘定は安定的なものでは無かつた。無い中から篠田には百円貸してやつたが、『丸二』に立替へた保険料は這入らず、細川に倒された千円近くの金には借用証書を書かされるし、来年はどうなることかと多少心配が無いでも無かつた。
然し彼は出来るだけ早く自分を自由の身にして、労働運動の方へ突進したいと考へた。然し小さい乍らにも、信用もあり店を張つて居ると、それを全く打捨てることも出来ないのである。
明治四十一年の最後の日が来た。そして栄一はこの年の最後の日を祈りつゝ送らんと除夜祈祷会へ出席した。福原口は何となしに喧噪で、充分除夜祈祷会の気分にはなれなかつたが、彼は明治四十二年には必ず、労働運動の一歩が踏み出し得るやうにと祈つた。
暮は苦しくても、正月は陽気であつた。屠蘇機嫌で、村井も、穂積も、山田も、六弥も、女中のお徳も嬉れしさうであつた。栄一も勉めて快活にならんとした。然し、それは不可能であつた。何か知らぬが、宗教的気分を味ひ『天の父』と云ふものに、まかせ切つてしまはねばならぬと考へ乍らも、哲学的煩悶が多年習癖になつた彼には、全部を宗教に打込む勇気に欠けて居た。
殊に新年に皆のものが美しい着物をきて花隈や福原へ遊びに行くと聞いては、自分だけ一人冷たい空気の中に残されることが如何にも憐れに考へられた。
それで栄一は一人京都奈良地方の淋しい旅行に出かけることにした。
一月二日の朝、栄一は京都行の列車に身を揺られて靄の深い京都に着いた。そして車を飛ばして博物館をみた。それから、銀閣寺から御室の方まで車で廻つた。然し何にも面白いこととては無かつた。翌日は奈良へ出たが、矢張り同様であつた。それで栄一は「フアウスト」第二編の第一幕目にある皇帝の言葉を繰返した。
Ich habe satt das ewige Wie und Wenn;
Es fehlt an Geld, nun gut, Do Schoff es denn.
永遠の『如何にして』と『もしも』には飽いた!
金が欲しいのだ、それで善いのだ、今それを呉れ!
丁度家を出てから五日目の午後五時五十二分、列車が小さい法隆寺ステーシヨンを西に走る時、北東の森に靄の中に消え行く黒ずんだ伽藍の影が見え無くなつた時、口には云へぬ悲哀の情が胸に漲つた。栄一は今にも泣く様に見えた。栄一はもう旅に疲れたのだ。そして彼は人生にも疲れたのであつた。『もし……もし、レールの上に横へて凡てのものが虚無になるのならば、僕は今覚悟して次の列車に死んで了つても善い。唯全部消え切らぬ様に思ふから、幽霊のやうな生活を続けて居るのだ。……アゝ――間違つた世界に生れて来た運転のきかぬ機械に、いくら油をさしても駄目だ。小秀を眺めても、もう駄目だ。家を出て五日になるが、僕の胸には何が充された。僕を救うてやると云ふものは誰も現はれても来ぬ。それは神か? いや、祈つても神の手はあまり短い。女か、女は神より猶小さい! 金か? 金か? あゝ穢ない、おれはもう駄目だ、もう駄目だ――』
発熱した頭痛のする頭を硝子窓に寄せて栄一は眼を閉ぢた。うと/\する。列車は恐ろしい音をたてて走る。客車が総硝子で出来て居れば善いになど考へる。
天王寺から汽車はいやな程多くのステーシヨンで停る。窓から見ると天満だとか、玉造だとか、大阪らしい無風流な名が、ステーシヨンの角ランプに書いてある。停車場と停車場の間は沙漠の様に瓦屋根が並んで、その上を黒い烟が流れてゐる。夜の大阪は実に物凄い。大風雨の海でも見る様だ。
淀川の岸を汽車が走つた時、急に心中の名所だと思ひ出した。そして何時ぞや神戸の相生座で誰やらが演じた茜屋半七と三勝の心中劇を思ひ起した。夜の大阪に心中? 何の関係があるかは知らぬが恐ろしい密接な関係のある様に思つた。そして大阪が恐ろしい……人の集るところが恐ろしいと思つた。
店の方は可成の成績であつた。
一月二日の積初めには、小栗(島上町の米の仲買)から小樽行の米が五千出たさうで、近頃これだけ大きな荷を扱つた事はなかつた。村井は、
『今年は屹度、運がよろしうおまつせ』――といつに無い笑ひを、例の鰐口から漏らして居た。
然し二十数年来の得意であつた藍玉の取扱は新しい契約が成立したとかで、愈々、新見の手を経ずに直接本船に廻はされる事になつた。
小僧の六弥は、胸糞が悪いと云つて栄一の前で大に憤慨して居た。その憤慨のしようが面白い。『もう恁麼吝な回漕店に居るのが嫌になつた。もう家へ帰つて百姓するんぢや……』と云ふのである。
村井は今年からの方針は全く『兵庫の米問屋と手を握るにありだ』と云つて居る。
然し、一月は米問屋社会も比較的不景気で、小栗も五千出した後で一千を室蘭に出した切りであつた。東京では銀行の警戒の声が高かつた。
荘田への金が払へなかつた。一月の支払を二月五日に延ばした。
荘田から、二月になつて米が出なかつた。来る日も来る日も二百か三百の米で五人の店員が簿記台の前に坐つて、新聞を読むのが仕事になつた。閑だのに小僧の六弥が惰けて、新聞を纒めないから、店には新聞が散らかつて、混雑して居るやうに見せた。然し混雑に見せたのは之れ許りでない。阿波の山奥から北海道へ移住する連中が、三十、四十と押寄せて来るものも繁昌めかした。然し、この混乱中に栄一は人間が生きて居らねばならぬ理由を発見することが出来なかつた。