36話 三十五
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一月二日の朝早く植木が、丸井と云ふ男を連れてやつて来た。
(植木の癖は栄一が起きない先に栄一を捕へるにあつた。)て、柴の葉のやうになつて居た。
それで栄一は丸井に色々と様子を聞くと、金に困つたから殺さねばならぬと知りつゝも、僅か五円の金に目が眩れて、姉がこの子をもらつたのだと云うて居る。それで栄一は一先づ自分の家へ引返し、行李から、絣の綿入と羽織を出して、之を質屋に持つて行つて、六円三十銭を借りて五円だけ丸井に渡した。丸井は植木と相談して、新見の向筋に住んで居て、半年程前迄西隣の吉田の嬶であつた『おいぬ』と同棲して居る、『たべらう』さんの所へ、屍体を片付けてくれと云つて来た。『たべらう』は『おいたべらうとも云はれて、貧民窟の葬式の出来ない人々の屍体を独りで片付けて煙草の木箱や蜜柑箱に、それを詰めて背に負うて、春日野の火葬場へ運ぶのがその職業で有つた。その日も彼は夕刻、蜜柑箱に赤ン坊の屍体を詰めて丸井の宅から運び出した。
之を見た、栄一は全く憂鬱になつた。そして急に貧民窟とその恐ろしい罪悪がいやになつた。彼は絶望的に悲鳴を上げて神を呪ひたいと思つた。神は愛では無い、暗黒と、絶望と、死と、貧乏の創造主だと罵りたかつた。
然し一月二日に死の面を見た栄一を意地の悪い神はそれだけで許さなかつた。一月五日の朝、また元旦の夕の礼拝に出て来て居た井戸渫へ屋の石野が、宅の子供が死んだから葬式をしてくれと云うて来た。それをも栄一は引受けた。吾妻通六丁目の藤本の借家に住んで居る、石野の宅へ行つて見ると、石野とその妻君とが呆然と坐つて居る。そして死んだ子が貰ひ子だと云ふことがすぐわかつた。
栄一が行くと、石野は、
『死んだのは、この子です』と、丸井の宅の子供より未だ小さい赤ン坊の屍体を隅から出して来た。座蒲団を三枚きりきりと兵児帯で巻きつけて、まるで土人形の様にしてあつた。その顔は、丸井の宅の子供のやうに眼が潰れては居らないが、色の青い、頭に湿疹の出来た醜い子であつた。こんな醜い子であれば、勿論育てる勇気は起るまいと栄一は感じたことであつた。之れは死体検案がいると云ふので、最も近い田沢医師の所へ飛んで行つて来てもらつた。田沢さんは老眼鏡をかけて、穢いからか不精からか畳の上に上りもしないで、庭に立つたまゝ、
『その子、こゝへ連れて来な!』と云うた。
さうすると、石野がそれを栄一に見せた様にして、医者に見せた。田沢さんは、
『アヽ、よし、よし、之か? 之は栄養不良ぢや! もう、わかつて居る、わかつて居る』と立つて脈も取らなければ、屍体に触れもしないで、その儘帰つて行つてしまつた。
栄一が後から随いて行くと、
『アレはな、あんなにして、貰ひ子をして食つて居るのぢやがな……この近所はあれ許りぢやから困るわい』と云うて居る。死亡診断書を取つて、出口の所へ立寄ると、石野の悪口を云うて居る。
『石野はあれで、三遍目です……貰ひ子をしては殺し、貰ひ子をしては殺し、その度毎に家を変るんだすがな……近所に恥かしいさかい……あんなことして居ると罰があたると云ふのやけんど、あれの嬶が、どんと惰くらでな、石野は毎晩、嬶に淫売をさせて、自分はあの年がは出来んと云うてやりましてん……然しあなたも、こんなにして我々貧乏人を救はうと思うて、こんなうるさい新川と云ふ所へお出でなしたんですから、もし助けられることでしたら、どうか助けてやつて下さいませ……この後は私もよう云うて、改心させまつさかい』と同じことを繰返して栄一に告げた。
兎に角栄一は、それで石野の家庭の事情がよくわかつたので、その足で直ぐ石野の処へ行つて、
『葬式代を後から持つて来ますから』と云つて出た。
内山は栄一の心をよく察して、
『先生、私が質屋へ行つて来てあげます』と云つて、栄一の袷の着物二枚をもつて走つた。そしてまた五円の金が出来た。それでその金を持つて、石野の処へ走つて行つた。栄一の行李には、もう後、袷一枚、筒袖の綿入一枚、浴衣二枚、そしてぼろ袴一枚、合計五枚しか残つて居らなかつた。
栄一は心臓がドキつく様な色々な試錬に会ふ度毎に強くなつた。栄一はその日神戸海上から帰つた後にも、まだ石野の棺が出て居らないことを知つて――新見に耶蘇のお葬式をして貰ふのだと云うて、帰りを待つて居た為めに――生れて初めて、キリスト教のお葬式と云ふものを貧民窟の三畳敷で施行した。
然しそれには格段な説教と云ふものも無かつた。『こんな醜い世界を見るよりか、死んだ赤ン坊の様に、早く天国へ飛んで行つた方が幸福だ』と述べたにしか過ぎなかつた。葬式が済むと石野は自分手に棺を持つて、春日野へ運んで行つた。栄一も石野の後から、沈黙のまゝ随いて行つた。正月の暮れ易い太陽が須磨の鉄拐山の後に隠れた時に、栄一は春日野の火葬場の前に立つて、石野に顔を隠して泣いた。神戸の街にはキラ/\電燈が光り出した。隠亡が棺を運ぶ車をカタ/\云はせて居た。