17話 十七
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辭令に巧みな壯語男爵後藤遞相を送り、駄句り屋子爵岡部法相を送つた北海道は、今また伊藤公爵と韓太子とを迎へた。
韓太子が主で、公爵を從にして待遇しようとした河島長官は、衆人稠坐而も藝者などが澤山ゐる中で、公爵から叱り附けられた。そして、如何に太子のお伴でも、自分は自分だから、そのつもりで待遇を怠るなと命令された。
その時の長官の恐縮し方がをかしかつたと云つて、それを實見した人々から評判になつた。そして、伊藤公爵に關する記事は、韓太子のよりも多く、諸新聞に出た。北海メールや小樽新報は勿論、高見呑牛の編輯する北星にも、渠の人物評や戀物語が掲載された。
かう云ふ賑やかな時に當つて、氷峰は獨り新聞界の友人等にかけ離れて、未刊雜誌原稿の校正の爲めに印刷屋へ往復ばかりしてゐる。
渠の好きな猫が、殺されたのか、見えなくなつたので、その代りに、どこからか兎を一對貰つつて來た。書生に命じて、庭の隅に低い板がこひを造らせ、そこへ入れ、博物館構内の牧草などを取つて來て喰はして置いた。晝となく、夜となく、他家の猫がいたづらをしに來るのが分つてゐたが、三日目の晩に、大きな音がしたかと思ふと、きゆうツと云ふ低い聲が聽えた切り、二匹ともゐなくなつた。
ランプを持ち出して、皆と一緒に義雄も頻りに隅々を探して見たが見えなかつた。
「きツと、猫かいたちが喰ひ殺したのだ、わ」と、お君さんは可哀さうがつた。
その翌朝、皆で厠が臭いと云ひ出したので、よく調べて見ると、その肥えつぼをかき交ぜて、一匹の兎がおぼれてゐた。そのまた翌日、ふと氣がつくと、無言の動物がまた一匹もとの巣のそばにしやがんでゐた。二日立つても道を忘れず、その死んだとは知らないつれを追うて來たのだ。孕んでゐる方の兎だが、喉を痛く噛まれてゐたので、食事を少しもせず、そのまた翌日死んでしまつた。
「兄さん、どうしよう」と、お君は自分の妹でも失つたかの樣に泣いた。
その日であつた、氷峰はお君をいつまでも――たとへ、臺どころ仕事をして貰ふには便利だが――とめて置くのは、かの女の爲め並びに自分の爲めによくないと考へついた。そして、かの女のいやがるにも拘らず、山なる長兄のもとへ歸してしまふことに決めた。
隣りのお鈴さんは、話し相手を失ひながらも、これから遠慮なく思ふ人に近づけるのを喜ぶらしかつた。
然し、氷峰も亦他へ轉居する必要が出來た。と云ふのは、社長が會計上の不始末でもあつたら困ると云ふ考へで、自分の選んだ會計掛りをそこへ住み込ませることになつたからである。
「水くさい、なア」と氷峰は云つたが、自分も臺どころ掛りを失ふので、下宿屋へでも行く方がいいと決心した。そして、渠はお鈴や義雄と共にお君をステーシヨンに見送つた日、印刷屋に近い、南二條の西一丁目なる鈴木といふ下宿屋へ移つた。
氷峰が下宿屋住ひになつて見ると、義雄はそこへ行つて居候暮しも出來ないから、有馬の家に置いて貰ふことになつた。
獨身者の不しだらな家とは違ひ、夫婦子供が小ぢんまりと暮してゐる家庭へ世話になつてゐるのは、義雄としてはなか/\こころ苦しい。
いツそのこと、思ひ切つて、東京の自由な友人間へ歸らうかとも思はないではない。然し、今のところ、歸るにしても旅費さへないので、工面を頼むとすれば、氷峰よりほかにないが、渠も亦今は、社長に束縛されて、着のみ着のままで下宿屋住ひになつたのだ。
「どうしても、原稿を書いて、勇夫婦に安心させて置くべしだ」かう考へて、義雄は、その月の一日の中央公論に出た、某氏の自分に對する長論文(執筆者から送つて呉れた)の反駁を書き初めた。某氏の論評に對して、義雄の人生觀並びに藝術觀(これは渠の論文集「新自然主義」に於いて發表してある)を辯護する爲めである。
然し某氏の論法が徒らに書籍上の空論に終つてゐるのを見ると、氣の毒なほどみじめな感じがした。義雄は、第一に、自分が青年時代に一たび足を入れかけた學者や宗教家仲間に這入らなかつたのを喜んだ。そしてその時代の同學や知人や感化者にして、今もなほ舊傳習の夢が覺めず、生命もない形式に囚はれ、生きながら死んでゐる渠等の状態を思ひ浮べ、如何にもあはれなものばかりだと考へた。
夏期休業も終はり、毎朝八時から勇が學校へ出かける樣になつたのを幸ひ、渠の書齋に引ツ籠つて、義雄は筆を執つてゐるのだが、ここにはプラトンはない、イムマニユエルカントはない。スヰデンボルグはない、エマソンはない。渠等はすべて義雄の古い感化者である。そして今では渠の思想上に於ける敵である。渠は渠等をそばに控へて、その向うを張るのを正直な誇りとしてゐるのだ。渠等のないのは、渠に取つて、何だか心寂しい樣だ。
然し、その代り、反對的にでもカントやエマソンをそばに控へない放浪の身でありながら、今持つてゐる思想をまとめ得られるのは、自分の精神と神經とに獨創の情想が出來てゐるからであると、自分で心丈夫に思ふ。
「自分の悲痛な思索は自分の直接經驗だ。」かう思ふと、自分のこれまでに經て來た幾多の戀、信仰、詩人的努力、家庭の迫害、親不孝、妻子を虐待、友人の離散、失戀、懷疑、絶望、破壞、墮落、自殺未遂、戀愛的事業、生の自覺、悲哀苦痛の現實的體得など、それからそれへと變轉滑脱して來た間にも、自分は終始一貫してゐるのを、自分ながら痛切に感じた。
そして、筆などを以つてまどろツこしい論戰をするよりも、寧ろ自分その物を今のまま論敵の前へほうり出した方が手速い證明だと考へる。
然しただ、東京と札幌と、海山何百里の隔てがこの論戰の筆を渠に執らせるのだ。渠は渠の鑵詰事業に熱中したと同じ覺悟を以つて、構想をめぐらす。
「執筆の意志」といふ第一項を書いてから、駁論全體の項目を先づ數へあげて見た。「新文藝に平行すべき新哲學いまだ實現せず」とか、「論者こそ却つて抽象的」とか、「主義と理想との新解釋」とか、「論者とカライルと自分との相違點」とか、いふのを列擧しながら、「現實は自我の無理想的活動」とか、「解決は死、無解決は生」とか、「活動は苦痛なり」とか、「強烈生活は優強者の勝利に歸す」とかいふのに至ると、項目だけを擧げたのに對しても、自分は既に自分の現在の本體を活躍させ得たといふ樣な痛みをおぼえる。痛みは即ち自分の眞摯な快樂であつた。
「戀や事業は自己の活動であつて、手段、目的ではない。」かう考へて、目的を持つから失戀、失敗が見えるのだが、自分が、強烈に活動してさへゐたのなら、失敗も成功もあるものではない。そして、今の自分ほど強烈な活動を心身におぼえることは少いと思ふ。
渠のこの現實的幻影は二日ばかりつづいた。そして、三十枚ほどまで原稿が進んだ。題名も「悲痛の哲理」とすることにきまつた。然しその進捗は殆ど忘れてゐたものの記憶を再起したので途絶されてしまつた。
渠は段々の順序に從ひ、家も忘れ、妻子も忘れてゐる。樺太の事業をも忘れてゐる。そしてまたお鳥をも殆ど忘れてゐた。ところが、かの女から、突然、「スグイクカネオクレ」といふ電報が來た。
「暫らく便りもしないで、人を馬鹿にしてゐやアがる!」かう考へて、義雄はそこに心のないほどに冷淡だ。そして、自分のやつてゐることを返り見た。
「この原稿を書き終はつて東京へ送つても、若し出すところがなくツて、稿料が取れないなら、當座の間には合はない。」
いくら簡結にしても百五六十枚にはならう。そんな長い論文を出して呉れる雜誌はちよツと心當りがない。先づ、同じ中央公論だらうが、それもさうつづけざまにはどうだか分らない。且、さきに送つた二原稿に對しても、各社は人を馬鹿にしてゐる、留守だと思つて、稿料を早く果取らせて呉れないありさまだ。
北海メールの天聲もさうだ。パス/\と云つてゐながら、少しもそれを旭川から取り寄せる手つづきを熱心にやらない。北海道巡遊も、もう、當てにはならないのだ。
「せめて、札幌だけにでも、もツと親しんで見たいものだが」と思ふと、ただつツ立つてゐる樹木のイタヤ、ハル楡、白楊樹のながめだけでは、滿足出來ない。また、百姓馬子の八百屋や燒きもろこし屋だけでもさうだ。
義雄はあツたかい抱擁に久しく遠ざかつてゐるのである。