18話 十八
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渠の目の前を、高砂樓のなじみやら、歡迎會の藝者やら、小樽の料理屋のや、路上で印象を得た女やらの記憶が、度々通り過ぎる。然し、通り過ぎるだけで、直ぐ消えてしまふ。
それが、渠には、闇にとぼつた光が直ぐまた消えた跡の樣に一しほ寂しくて、寂しくて溜らないのだ。「いツそ、歸つてしまへ!」かう自分で自分に命令した時は、一刻も早く歸京して、あの迷つてはゐる女だが、心の分つたお鳥に、今一度會つて見たいといふつもりになる。
然しお鳥には、ただ冷淡に、自分が歸るか、かの女を呼ぶか、どちらもまだ決しられないから、少し待てといふ返事を出した。そして、別に、親友二三名に向つて、歸りたいが、旅費が出來ないから、送金して呉れろと頼んでやつた。一人を當てたのでは、留守であつたり、出來なかつたりして、間に合はないかも知れないと思つたからだ。
義雄が歸京と決心したのを喜んだのは勇夫婦だ。その日の夕方は、めづらしく特別な御馳走をした。そしてお綱さんが、
「奧さんがさぞお喜びになるでせうよ」と云ふと、勇もそれについて、
「僕も惡いことは云はない――さうした方が實際いいのだ。君は越年の計畫も云つてゐた樣であつたが、充分の用意がなくつては、札幌の冬は寒いから、ね。」
「なアに、マオカにさへ越年しようとしたのだから」と、義雄は少し反抗的に、「北海道ではなほ更ら平氣だらうが――」勇の家、いや、札幌ばかりが自分の好奇心を引いた北海道ではないことをほのめかして、「然し、兎に角、かう軍用金が不自由では、ねえ」と微笑した。
「北海道の冬は」と、勇もこちらの土地不案内を諷ずる口調で、「來るのが突然だから、慣れないと、ちよツとまごつかされる。」
「まごつくのは、まごつく奴が惡いのだらう。」
然し、思ひ返すと、義雄は今からも早や多少まごついてゐる形がある。それを氣が附かないほどの人間だと思はれるのが不本意なので、且は、また、自分は決してそこまでうか/\してゐるものではないといふことを示めす爲め、二三年前、越年期のマオカで、食糧上の大慘事があつたことを勇に語り聽かせた。
それはかうである――マオカへ初めて來た移住者等のうち、越年の用意に氣が附かなかつた爲め、海がいよ/\結氷するに至つてから、あちらにもこちらにも餓ゑを叫ぶものが出來た。それが丸で饑饉の状態であつた。官憲はその處分に困り、急仕立ての慈善會を催しなどして、僅かに救濟することが出來た。その翌年からは、雪が降り出す前に、巡査が必らず各戸をまはり、三四人の家族に附き米三俵、味噌一と樽の用意をしてあるか、どうかを取り調べることになつてゐる。
「馬鹿な奴は、官憲でも、人民でも、そんな目に逢つてから、漸く注意するのだ」と、義雄は政治的意味を帶びさせたつもりで勇に云ふ。
「さういふのは、困つたものだ、ねえ」と、勇も答へて、小だはりのない世間ばなしに移る。
義雄は珍らしくいい氣持ちに醉つた。
獨りふら/\と有馬の家を出で、暗やみの道を、博物館わきに於いて、かのアカダモ――幽靈の手の樣な枝、すさんで行く自分を放浪の第一日に優しく、寂しくやはらげて呉れた幹――はこの邊だらうなどと考へた。それから、南二條に行き、氷峰に決心のほどを告げた。
「歸るなら、旅費ぐらゐはするつもりぢやが、今のところ、君も知つとる通り、僕自身の首がまはらぬのぢやから、なア」と、氷峰は云ふ。
「なアに、それはけふ東京の友人二三名へ云つてやつたから、どれからか送つて來る、さ」と、義雄は氷峰に平氣を見せる。
「さうか」と云つたばかりで、氷峰は頻りに同席の印刷屋に向ひ、發刊に迫つた雜誌に關する至急な話をしてゐるので、小使を借りてまたそこを出で、もう、やがて別れるのかと思ふ市中を、見納めのつもりでぶらついた。
足は段々薄野の方に向いたが、あがりもしないのに、地廻りの樣に、格子さきをまごつくのは詰らないと思ひ返した。そして、狸小路の賑やかな夜店をひやかしながら、掘り割り水道を東へ渡つた。
ガスの深い夜で、店々のあかりが濕ツぽく見える。
その邊に客を引ツ張る女がゐると聽いてゐたから、好奇心を起したのであるが、八字ひげの風來者を誰れも相手にして呉れるものはない。その癖、行き會ふ女はすべてそれではないかと思はれた。
ふと、思ひ附いたのは、そば屋といふ物だ。東京などとは違つて、云つて見れば、そこが仙臺なら汁粉屋といふところださうだ。そばは却つてどうでもいいので、いろんな料理で酒を飮ませ、その上の相談も出來るのだ。
「札幌滯在の一とみやげに、それがどんなところか實見して置かう。」かう考へて、義雄はとある看板を見つけて、そこへあがつた。
こせ/\と小い部屋の多い、薄ぎたない家で、べた/\お白いをつけた不別嬪が四人も五人もゐる。そのうちの一人が出て來て、
「御料理は何がよろしい」と云ふ。
「僕はもう醉つてゐるんだから、そばだけ喰ひに來たのだ。」かう註文して、「それにお銚子を一本」と云つた切り、女が勸める他の料理は命じなかつた。
それで女を相手に話して見ようとしても、自分は何となく氣がとがめて調子に乘れないし、女も亦こちらを安いお客と見たのか、話しかけられても、冷やかな挨拶ばかり――横を向いて、挑發的な鼻唄を歌つてゐる。
唄は普通の唄で、決して聞き慣れてゐないのではないが、義雄の現在には、それが異樣な挑發に取れたのだ。然しそれに應ずる手づるがない。
そして、二三室隔つた部屋では、どんな女か分らないが、客と共に追分を歌つてゐる。
義雄は座に堪へない樣な、いやな氣がして來たので、それだけの拂ひをして、そこを出た。
雨がしよぼ/\降り出したのである。
義雄は傘なしでのそり/\歩く。醉つてゐるので、熱した顏に雨がひやり/\當るのが實に氣持ちいい。そして、
「自分は解ける物でもない、また急ぐ用事のある身でもない。」かう考へて、わざとくそ度胸を決めたところは、どうしても、燒けツ腹だと自分でも思つた。
掘り割り水道に添うて北に行き、北四條を西の方へ、今聽いた女の追ひ分節を繰り返しながら歸つて來ると、行く手のガスの中から一つ、カンテラの光が見える。それが氷峰の社の角なるもろこし店で、いつもと違つて、イタヤもみぢの下なるおやぢは寒さうに焜爐火にしがみ附いてゐる。
何となく話がして見たくなつたので、そのそばへ行き、
「この雨に、おそくまでよくかせぐ、ね。」初めての聲をかけると、
「へい。」渠は丁寧にあたまを下げたが、さも馴れ/\しさうに、「上機嫌で、旦那はいつも御結構です。」
義雄は、このおやぢばかりが唯一で最後の親友かと、興ざめざるを得なかつた。