19話 十九
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氷峰の雜誌の初號が刷りあがつて、その發刊があすの十五日に迫つてゐるのに、社としてそれを引き取る用意が出來てゐないばかりか、渠自身が下宿へ拂ふ前金も、僅かばかりを與へたほか、まだ渡すことが出來ないのだ。これは、義雄も、一緒に行つてそこを探し當てたので、よく知つてゐる。
「ところが、あの婆々アはなか/\氣前者ぢやぜ」と、氷峰は讃めてゐた。婆々アとは、そこの女主人で、五十近いが、まだ目に立つほどお白いもつける質の女だ。
義雄は、そこの貰ひ娘や女中に、
「目のきよと/\した、言葉附きの荒ツぽい人」として、嫌はれてゐる。十四日の夜、渠が氷峰の二階の室に行つてゐると、下の娘があがつて來て、
「島田さん、お母さんがお約束の林檎を御馳走しますからいらツしやいツて」と云つた。
氷峰はそれについて行つて、暫らく戻つて來ない。義雄は渠を待ちながら、雜誌の刷り上り見本のページを繰つて見ると、雨敬、新戸部、山縣勇次郎、その他知名の人々の材料の外に、呑牛の人物評や逸事談、天聲の新聞編輯苦心談、北劍の中野天門談などがある。義雄の書いたのは、「詩人文豪より蟹の鑵詰製造家となりたる田村義雄の鑵詰談」と云ふ、長い表題で載つてゐる。そして、義雄、氷峰、勇が三人で撮影した寫眞が挿んであつて、義雄の見出しには「將に實業家とならんとする田村義雄氏」とある。
義雄はこれを見た時、非常に心で苦しみをおぼえた。その原稿と寫眞とが發表されないうちに、もう、自分の事業は殆ど跡かたもなくなつてゐるありさまであるからである。
渠は雜誌を伏せてしまつた。然し、氷峰の戻るのが待ち遠しいままに、またそれを開らいて見ると、二百ページ餘の四六二倍大の雜誌が殆ど各ページに大小一つなり、二つ、三つなりの寫眞が這入つてゐる。材料はすべて北海道專門だが、その體裁は東京のおもな實業雜誌にも劣つてゐない。廣告も澤山あつて、金のあがらないのは社長川崎藤五郎の請負廣告と、氷峰の詩集廣告と、義雄の詩集と「半獸主義」と「新自然主義」との廣告ばかり、あとはすべて取れるものだ。
「北海道に於ける絶後ではないかも知れぬが、空前の大雜誌だらう」といふ、仲間での評判は讃め過ぎでないと思はれた。
そこへ、氷峰が左りに酒を注いだ猪口を持ち、右に徳利を持ち、變な手つきで兩方から肩と平行するほどにあげ、脊を丸めてをかしな樣子で、女主人の婆アさんにふすまを明けさせて、這入つて來た。
「ああ、醉うた、醉うた」と、渠は坐わらないでふら/\してゐる。
「お酒がこぼれるぢやありませんか」と、婆アさんは息子でも世話する樣に渠を押へる。然しかの女も醉つて顏が赤くなつてゐる。
「さ、もう、お休みなさい。」婆アさんは猪口と徳利とを氷峰から取りあげ、「これはお客さんにあげると云うて、持つて來たのですから」と、義雄の前に置く。そして、かの女は立ち去つてしまつた。
「仕やうがない婆々アだ」と、氷峰はけろりとした。それほど醉つてゐるのではないらしい。
「どうしたのだ?」
「なアに」と、氷峰はいま/\しさうに、「あの年をして、おれに氣があるはあきれらア、な。林檎は晝間からの約束であつたが、一緒に酒を飮めと云ふのぢや。飮むと、ここは茶の間で女中の用に邪魔になるから、お母さんの部屋へ來いと云ふのぢや。はんか臭いから、逃げて來たの、さ。」
「そんな婆アさんらしい、ね。」
「おやぢがあつても、別に女と住んでをつて、自分を相手にして呉れないから、獨りで浮氣をしようと云ふのだらう。」
「困つた婆々アだ。」義雄も調子を合はせたが、自分の妻のことを思ひやると、かの女にしても若し少しでも浮氣があるなら、ここのと同じ樣になるかも知れないがと云ふ樣なことが浮ぶ。そして、自分が段々若い女、若い女と目をつける樣になつたと考へられるだけ、反對に、年寄り女の色氣をぞつとするほどいやな物だと聯想した。
「僕もこれではやり切れないよ」と、氷峰は義雄と爐を挾んで相對する。「お君からは毎日の樣に手紙をよこすし。お鈴も裁縫に行くと云うては隱れ通ひをして來るし。また、孕んでゐる女の親からは、來月が臨月ぢやから、準備の金だけでも送つて呉れろと云うて來るし。その本人はまた死んでしまふと云ふ手紙ぢや。けふも夏洋服まで質に入れて、郵便かはせを送つてやつたのぢや。」
「身から出たさび、さ。」かう云つて、義雄は獨酌する。「然し、事情が事情だけに、お君さんは可哀さうだよ。叔父さんを戀するとは、もう、現代では悲劇だ。」
「それに、雜誌はこの通り刷り上つても、これを受け取る金があすまでに出來るか、どうか分らん。僕もよわつた、なア。」
「然し雜誌の方は社長がどうかするだらう、さ。」
「それにしても、僕の入用があるのぢや。今、頻りに人を持つて呼び出しに來る女があるから、あす逢うてやつて、それから二三百出させようかと思うてをる。」
「男めかけに行くのかい?」
「まア、さう大きな聲をするな」と微笑して、氷峰は雜誌をつき出し、「時に、うまく出來たらう、どうぢや?」
「立派なものだが、賣れて呉れないと困る、ね。」
「それは僕に充分考へがある、さ。――初號を出したら、直ぐ新聞記者がはへ披露會をやるが、君にも來て貰ふぞ。」
「そりやアありがたい、ね。」
こんな話から碁に移り、互ひ先の勝負があつて、義雄はその部屋で氷峰と一つ床へあとさきに這入つた。實は、今夜、勇は學校の當直であるから、細君ばかりの家にとまるのを氣の毒に思つて、義雄はこちらへ來たのだ。
「野郎同志では仕やうがない、なア。」
「然し、あの婆アさんぢやア溜るまいよ。」
「は、はツ」と、二人はあとさきの枕もとから笑ひ聲を出した。
氷峰は少し風を引いてゐたので、義雄と夢うつつで蒲團の引ツ張り合ひをした。そして、義雄は、北海道は夜中になると、夏でもなか/\寒いといふことを實驗した。