18話 十七
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森本春雄は、まだ病院を退ける場合でないが、東京にゐる父が卒中で死んだといふ電報を受け取つたので、急に退院の手つづきを濟せ上京することになつた。
それを知らせがてら、渠は義雄の下宿を音づれた。そして、
「うちの大將にも困つてしまふ。人が父を失つて心配してゐるにも拘らず、自分は勝手に飮みつぶれてゐて、一向、ことを運ばして呉れないのだ。」
「どこにゐるのだ?」
「幾代で流連してゐるらしい。そして、釧路までもつれて行つた妾は、別に宿屋へ置いてあるらしい。無駄なことにはぱツぱと金を使ひながら、僕の大事件を少しも思つて呉れない。實に困るよ。」
「いつ立つ、ね?」
「實は、けふにも立ちたいが、頼んだ金があすの朝でなければ出來ない。それに、大將が、あす、或事業の相談で登別温泉まで行くので、そこまでまはつて呉れと云ふし。室蘭線へまはつて、そんなことをしてゐれば、青森を出るのが、どうしても、あさつての晩になる。」
「そりやア、困るだらうが、主人のことだから、仕やうがなからう。」
「今夜も、飮みがてらやつて來いと云つて來たが、僕はいやだ――父が死んだと云ふのに、酒など飮んでゐられるかい?」
「それもさうだ」と答へて、義雄は春雄のわさ/\した樣子が少し落ちつくのを見計らひ、自分も歸京したいこと。女は置いて行くが、自分の歸京費さへないこと。春雄に工面を頼みたいのだが、さう云ふ場合だから、どうしても、松田に話して呉れろといふこと。などを語つた。
その翌日、春雄は松田に幾代へ呼ばれ、そこから一緒に停車場へ行つた。
午後二時の列車だから、義雄は見送りに行くと、春雄は止むを得ず飮ませられたと云つて、大分顏が赤くなつてゐる。そして、
「かういふ次第で、君の頼みを話す樣な眞面目な時がなかつたから、汽車に乘つてから話すよ。」
「ぢやア、ぬかりなく頼む――僕も小樽の宅の方へ手紙をやつて置くから。」
そこへ、松田が熟柿の樣な顏をして、よろ/\とやつて來て、「やア、失敬」と、天鵞絨ベンチの上へどツかり腰をおろす。八月十五日に樺太から一緒に小樽に着し、また一緒に汽車に乘り、この停車場前で別れた切り、二人はけふが久しぶりだ。
「暫らくでした」と、義雄もそのそばへ腰をかける。「釧路からまた登別ですと、ね。」
「まア、温泉へでも這入つて來る、さ――時に、あの鑵詰事業の協同問題は失敬した、な。」
「なに、どう致しまして」と、義雄は輕く答へたが、この人さへ事情を酌んで、その樺太漁場につぎ込んでゐる資本の百分の一でも千分の一でも出してくれたら、何のことはなかつたのにと思ふ。そして、氣を轉じて、「いつ小樽へお歸りです?」
「二三日で、そしたら、少しやつて來給へ。」
「いづれ伺ひます――僕も、もう、歸京したくなつてるのですから。」
「然し、君」と云つて、松田は小指を出し、「これが來たて、ね。」酒臭い息を吐く。
「は、は、は」と、義雄は受け流した。然し手紙を出す都合もあると思つたから、お鳥が入院の件を直接に話した。
松田の妾らしいのが、同じ二等待合室の向うの方に獨りで腰かけてゐるのを見たので、義雄は見送りをわざと改札口で失敬する。
松田がプラトフオムをよろめきながら橋ののぼり口の方へ進むあとについて、女はまたちよこちよこ歩いて行く。かの女は今一度義雄の顏を見て置かうと思つてか、ちよツとふり返つた。
その時まで、春雄は柵を隔てて、義雄と別れを惜しんでゐた。然しそれも、
「ぢやア、失敬」と云つて、離れて行つた。
義雄は、それを見送りながら、春雄と云ひ、敷島と云ひ、自分の範圍が段々狹まる樣な心細さをおぼえた。そして松田と關聯して藝者お仙のことを思ひ出された。自分等と同船で樺太を逃げて來たり、自分等と小樽のはと場で別れてから、あの女放浪者はどこへ行つたらう? あの時、義雄自身も亦一種の放浪者にならうとは思はなかつたのである。ところが、今やこの自分の姿は放浪をとほり越して斷橋の行き惱みになつてゐる!